政治家 / us_president

エイブラハム・リンカーン
アメリカ合衆国 1809-02-12 ~ 1865-04-15
第16代アメリカ合衆国大統領(1809-1865)。ケンタッキー州の丸太小屋に生まれた独学の弁護士から共和党最初の大統領に就任。南北戦争で連邦を維持し、奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説を遺したが、1865年4月、フォード劇場で米国史上最初の被暗殺大統領となった人物である。「正直者エイブ」と呼ばれた人格的清廉さは今も語り継がれている。
この人から学べること
リンカーンの「内部で分裂した家は立ち行かない」という認識は、組織や国家がイデオロギー的に分極化する現代に切実に響く。現代のリーダーは対立する立場の双方に同等の知的尊重を払いながら、原理原則は譲らないという困難な舵取りを求められる。彼が南軍降伏直後の第二期就任演説で「いかなる者にも悪意なく」と説いた寛容は、買収統合後の旧経営陣、敗者となった政敵、離脱した同僚への向き合い方の規範となる。同時に学ぶべきは「不可視化される強権」への警戒である。彼が戦時に発令した人身保護令の停止や新聞検閲、ダコタ族38名の処刑承認は、危機下の指導者がいかに容易に基本的人権を留保してしまうかを示す歴史事例であり、現代のリーダーが「緊急時」「セキュリティ」を理由に常識的な抑制を停止する誘惑に対する警鐘である。功と罪を併せ持つ彼の遺産は、組織を率いる者が常に手元に置くべき複合的な教科書となる。
心に響く言葉
私は歩くのが遅い。しかし、決して後ろへは歩かない。
I am a slow walker, but I never walk back.
人民の、人民による、人民のための政治を、地上から決して滅ぼさないようにすること。
Government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
誰に対しても悪意を持たず、すべての者に慈愛をもって、神が我々に正しさを示し給うがごとく正義に固く立ち、いまなしている仕事を成し遂げる努力を続けよう。
With malice toward none, with charity for all, with firmness in the right as God gives us to see the right, let us strive on to finish the work we are in.
内部で分裂した家は立ち行かない。この政府が半分奴隷・半分自由のままで永続することはできない、と私は信じる。
A house divided against itself cannot stand. I believe this government cannot endure, permanently half slave and half free.
生涯と功績
エイブラハム・リンカーンは1809年2月12日、ケンタッキー州の辺境にある丸太小屋に生まれた。両親は読み書きの不自由な開拓農民で、母ナンシーは彼が9歳の時にミルク病で世を去った。正式な学校教育は通算1年に満たなかったが、彼は飢えるように本を読んだ。測量士・郵便局長・雑貨店経営を経験した後、ブラックストーンの法律書を借りて自学で弁護士資格を得たという独自の経歴は、米国民主主義の自助神話の原型となった。後年、彼自身もこの「丸太小屋から大統領へ」の物語を選挙戦で巧みに用いた。
イリノイ州議会議員を4期務めたあと、1846年にホイッグ党から下院議員に当選。米墨戦争に反対し戦争の発端を問う「スポット決議」を起草したが、政治的には不評を買い1期で身を退いた。1854年のカンザス・ネブラスカ法が西部準州に奴隷制拡大の道を開いたことに激怒し、結成間もない共和党に加入する。1858年の上院選では民主党の重鎮スティーヴン・ダグラスとの7回の公開討論で全国的知名度を獲得した。落選はしたが、この討論が大統領への階段となる。彼の演説は奴隷制を経済問題ではなく道徳の問題として再定義した点で画期的だった。
1860年に共和党初の大統領として当選。彼の当選は南部諸州の脱退を呼び、1861年4月のサムター要塞砲撃で南北戦争が勃発した。リンカーンは連邦軍の戦略を綿密に監督し、勝てる将軍が見つかるまで指揮官を頻繁に交代させ、最終的にユリシーズ・グラントを総司令官に据えて勝勢を固めた。1862年9月のアンティータム会戦の戦略的勝利を受け、1863年元日に奴隷解放宣言を発令。1863年11月のゲティスバーグ演説では、戦争の意義を「人民の、人民による、人民のための政治」が地上から消えないようにする戦いとして272語に凝縮し、米国民主主義の根本理念を再定義した。
戦時下の決定には功罪両論がある。1861年4月にメリーランドで人身保護令の停止を独断で発令し、最高裁長官タニーから違憲と批判された。北部新聞の検閲も黙認した。さらに1862年12月のダコタ戦争後、ミネソタでスー族38名の同時処刑を承認した。これは米国史上最大の集団処刑である。彼は処刑対象者を303名から38名に減らしたが、なお歴史的批判の対象として残る。これらは緊急時に行政権がいかに容易に基本的人権を留保するかを示す事例として、現代の合衆国憲政史で繰り返し参照される。
1864年に再選を果たし、1865年3月の第二期就任演説では「いかなる者にも悪意なく、すべての者に慈愛をもって」と南部への寛容を誓った。だが南軍降伏わずか6日後の1865年4月14日夜、首都ワシントンのフォード劇場で南部支持者の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに後頭部を撃たれ、翌朝死去した。連邦の維持と奴隷制の終焉という功績は揺るぎないが、戦時の人権制限と少数民族政策の影と並び立つ複合的遺産として、彼は米国憲政史の中軸に位置し続けている。「正直者エイブ」と呼ばれた人格的清廉さは今日も政治指導者の理想像として記念碑的な意味を持ち、後の世代の合衆国大統領は皆、何らかの形でリンカーンの遺産との対話を強いられてきた。1922年に完成したリンカーン記念堂は、首都ワシントンで最も多くの市民が訪れる政治記念碑のひとつであり、彼の存在は依然として米国民主主義の象徴として息づいている。
専門家としての評価
近代政治史上、リンカーンは「危機下の合衆国を維持した大統領」として比較対象を持たない。立法者・弁論家・最高司令官の三役を一身に体現し、シェイクスピア的悲劇の言語感覚を政治演説に持ち込んだ点でも独自である。連邦維持と奴隷解放という二大成果に対し、戦時人身保護令停止・新聞検閲・スー族集団処刑承認では現代基準で批判もある。功罪両面が並存する政治指導者像として、合衆国憲政史と民主主義論の中軸に位置し続けている。