政治家 / us_president

セオドア・ルーズベルト
アメリカ合衆国 1858-10-27 ~ 1919-01-06
第26代アメリカ合衆国大統領(1858-1919)。42歳で就任した史上最年少の大統領であり、革新主義(Progressive Era)を主導、独占禁止・労働者保護・自然保護政策で国家を改革した。日露戦争の和平調停で1906年ノーベル平和賞を受賞。「ビッグスティック」外交とテディベア語源で親しまれる人物である。
この人から学べること
セオドア・ルーズベルトから現代の経営者・政策担当者が学ぶ第一は、「闘技場の男(Man in the Arena)」の倫理である。批評家ではなく実行者として失敗を引き受ける姿勢は、SNS時代に外野からの批判が氾濫する現代において、リーダーが自分を見失わないための古典的指針である。第二は、独占禁止と労働者保護を同時並行で進めた政策設計である。彼は大企業を解体する一方で資本主義そのものを否定せず、巨大IT企業時代の独占規制議論において再読される対象となっている。第三は、「太い棒を持つ穏やかな話し方」(ビッグスティック外交)である。これは現代の経営判断・国際関係において、力の準備と対話の準備の両方を欠かさない姿勢として参照される。同時に、彼の帝国主義的政策は、強権的指導者が国内の進歩主義者であっても国外で抑圧者となりうるという警鐘でもある。
心に響く言葉
決して間違いを犯さない人間は、何もしない人間だけである。
The only man who never makes mistakes is the man who never does anything.
穏やかに話し、太い棒を携えて歩け。そうすれば遠くまで行ける。
Speak softly and carry a big stick; you will go far.
重要なのは批評家ではない。強き者がどう躓くか、行動する者がどうすればより良くやれたかを指摘する男ではない。栄誉は実際に闘技場に立つ人に属する。
It is not the critic who counts; not the man who points out how the strong man stumbles, or where the doer of deeds could have done them better. The credit belongs to the man who is actually in the arena.
今いる場所で、自分にあるもので、できることをやれ。
Do what you can, with what you have, where you are.
生涯と功績
セオドア・ルーズベルトは1858年10月27日、ニューヨーク市の裕福なオランダ系商人家に生まれた。幼少期は喘息で病弱だったが、父の勧めで激しい運動と冷水浴を取り入れ、少年期にボクシング・乗馬・登山に打ち込み「ストレニュアス・ライフ(果敢な生)」の思想を体現した。ハーバード大学卒業後、コロンビア大学法学部に入りつつニューヨーク州議会議員に当選、22歳で議席を得た。
1884年2月、母と妻アリスを同日に失う悲劇に見舞われ、ダコタ準州の牧場で2年間生活し精神を立て直した。帰京後ニューヨーク市警察委員長として警察改革を遂行、1898年米西戦争では志願兵騎兵連隊「ラフライダーズ」を率いてサンフアンの丘での突撃で英雄となった。同年ニューヨーク州知事、1900年マッキンリー大統領の副大統領候補に指名され当選。1901年9月、マッキンリー暗殺により42歳で大統領に昇格、米国史上最年少の大統領となった。
大統領在任中、彼は「スクエアディール」を掲げて革新主義の政策を主導した。シャーマン反トラスト法を本格運用しノーザン・セキュリティーズ社を解散、1902年無煙炭ストライキで連邦政府が初めて労使仲裁を行った。鉄道規制・食品衛生・労働者保護で連邦政府の役割を根本的に拡大した。さらに2億3千万エーカー(本州の約4倍)の土地を国立公園・国有林・国立記念物に指定、現在の米国国立公園体系の基盤を築いた。
外交では「Speak softly and carry a big stick」(穏やかに話せ、ただし太い棒を携えて歩け)の方針を掲げ、1903年パナマ独立支援とパナマ運河建設、1905年日露戦争和平調停(ポーツマス条約)で1906年ノーベル平和賞を受賞した。グレートホワイトフリート(大白色艦隊)の世界周航によって米国海軍力を世界に示し、米国を本格的な世界強国に押し上げた。1907年クマ狩りで子グマを撃たないと宣言した逸話から「テディベア」が誕生したのもこの時期である。
しかし功罪両論ある。彼の革新主義は人種問題に踏み込まず、フィリピン統治・ドミニカ共和国の関税権受託など帝国主義的政策を推進した。1908年に大統領退任後、後継のタフトと衝突し1912年に進歩党(ブル・ムース党)を結成し大統領選に出馬、共和党票を分裂させ民主党のウィルソンを当選させた。1914年アマゾン探検で重病、1919年1月6日、心臓疾患により60歳で死去。彼の名はラシュモア山の四大統領の一人として刻まれ、現代米国の保守と革新の両面に流れる「強い大統領」の原型を残している。彼の自伝『セオドア・ルーズベルト自伝』(1913年)はアメリカ政治家自伝の古典の一つであり、その文体の活力は現代でも引き継がれて読まれている。彼が好んだ「strenuous life(果敢な生)」の倫理は、20世紀を通じて米国大衆文化の自己啓発書、スポーツ、ビジネス論にまで広範に浸透し、現代の自己啓発書・成功哲学書の系譜にも影響を与え続けている。彼の名はラシュモア山の他にニューヨーク市の自然史博物館前の像、米軍空母「セオドア・ルーズベルト」など、米国の風景の中に至るところ刻まれている。彼の長女アリスは社交界の華として知られ、その活発な生き方は当時の米国女性のロールモデルともなった。彼の親族からはフランクリン・D・ルーズベルト第32代大統領も輩出している。
専門家としての評価
20世紀初頭の米国大統領の中で、セオドア・ルーズベルトは「強い大統領」のモデルとして比較対象を持たない。革新主義・自然保護・外交の三領域を同時に動かし、現代米国行政府の権能の起源となる人物である。一方で、ラテンアメリカ・フィリピンへの帝国主義的政策、人種問題への消極性は近年の歴史学の批判対象となっており、神格化と批判的検証が並走する21世紀の偉人像として、米国の歴史教育の中で再評価が続いている人物である。