政治家 / 古代ギリシア

ペリクレス
ギリシャ -0493-01-0 ~ -0428-01-0
古代アテナイの政治家・将軍(前495頃-前429)。アテネ黄金期(前461-前429)を率い、貴族会議の権限縮小、貧困層への手当支給、デロス同盟資金によるパルテノン神殿建設で「ペリクレスの時代」を築いた。トゥキュディデスは「アテナイの第一の市民」と評し、ペロポネソス戦争初期に疫病で没した彼の葬送演説は今も民主政の古典である。
この人から学べること
ペリクレスから現代の組織運営者が学ぶ第一は「制度参加のコスト引き下げ」である。彼は陪審員手当・観劇手当という現金給付で、生活に追われる市民が政治・文化に参加する物理的余裕を作った。現代でも、組織や社会の意思決定に下層メンバーが参加できない真の障壁は時間とコストである。第二は「籠城戦略の意思決定原理」である。ペロポネソス戦争で彼は「アテネが敗北しなければ必ず勝つ」と判断し、市民の感情的な決戦要求を抑え続けた。短期的人気を犠牲にしても長期戦略を貫く姿勢は、四半期決算の圧力下にある現代経営者にとって参考になる。第三は葬送演説の「公的物語の構築力」である。彼は戦死者を悼む式典を、アテネ民主政の正当化と市民倫理の啓蒙に転化した。現代の企業が周年式典・全社会議で語るストーリーも、これと同じ機能を持つ。一方、彼の同盟資金流用とアテネ帝国化が、後のシチリア遠征の暴走と国家崩壊の遠因になった事実は、リーダーの「成功体験を制度化する罠」への警鐘でもある。
心に響く言葉
我らが従う政体は、少数者ではなく多数者の利益のために統治する。それゆえ民主政治と呼ばれる。
ἐς ὀλίγους ἀλλ' ἐς πλείονας οἰκεῖν, δημοκρατία κέκληται.
貧しいことは恥ずべきではない。恥ずべきは貧しさから脱しようと努めず安住することだとアテナイ人は考える。
アテナイでは政治に関心を持たない者は、市民として意味を持たない者と見なされる。
時の言うことをよく聴け。時はもっとも賢明なる法律顧問である。
生涯と功績
ペリクレスは紀元前495年頃、名門アルクマイオン家の血を引く家に生まれた。父クサンティッポスはミュカレの戦いの指揮官、母アガリステはクレイステネスの姪である。哲学者アナクサゴラスを師とし、内省的な性格と冷静な弁論術で青年期を過ごした。プルタルコスによれば、母は出産前夜にライオンを産む夢を見たとされ、彼の頭蓋骨の特異な大きさは喜劇詩人達の格好の標的になった。彼が肖像で常に兜を被って描かれるのもそのためだと伝わる。
紀元前461年、彼は民主派の指導者エフィアルテスとともに貴族の最高議会アレオパゴスから司法権を剥奪し、全市民が集まる民会へ移管する大改革を断行した。同年エフィアルテスが暗殺され、政敵キモンが陶片追放されると、ペリクレスはアテネ政治の頂点に立つ。彼が連続15年以上ストラテゴス(将軍職)に選出され続けたという事実は、当時の民主政が一人のカリスマに依存していた現実を物語っている。
彼の政策は二面で評価される。第一に民主政の深化。彼は陪審員手当・公務員手当の導入で貧困層の政治参加を可能にし、観劇手当で文化的市民権も保障した。プラトンとアリストテレスは後に「アテナイ人を怠惰で強欲にした」と批判するが、トゥキュディデスは「彼は民衆に流されず、民衆を導いた」と評価した。第二にデロス同盟の「アテネ帝国」化である。同盟金庫をデロス島からアテネに移し、加盟ポリスから集めた貢納金で前447年から始まったパルテノン神殿建設の資金とした。ギリシア学者ヴラホスはこの行為を「人類史上最大級の流用」と呼ぶが、その流用が古代世界最高の芸術を生んだことも事実である。同時期、彼は前451年にアテナイ市民権を「両親ともアテナイ人」のみに限定する法を制定し、排他的な市民共同体を強化した。皮肉なことに後年、彼自身がミレトス出身のアスパシアとの間に生んだ息子のために、自ら作ったこの法律の例外を求めることになる。
彼の私生活も論争を呼んだ。前妻と離婚した後、ミレトス出身の女性アスパシアと長く連れ添ったが、彼女が外国出身でかつ独自の知的サロンを主宰したことから、当時の保守派は「ペリクレスを堕落させた女」と非難した。彼女に対する不敬罪裁判では、彼が公の場で涙を流して弁護したという有名な挿話が残る。さらに友人の彫刻家フェイディアスは横領容疑で投獄され、師アナクサゴラスも不敬罪に問われ追放された。彼を取り巻く人物への執拗な攻撃は、当時のアテネ民主政が一人のリーダーへの嫉妬と猜疑をどう処理したかを示す格好の事例である。
紀元前431年に勃発したペロポネソス戦争でペリクレスは籠城策を採った。スパルタの圧倒的な陸軍に対し、海軍力で対峙し、長城内に農民を退避させ、艦隊で敵領を襲う戦略である。「アテネは敗北を回避できれば必ず勝つ」が彼の構想だった。だが翌年アテネを襲った疫病により、自身の二人の正嫡子を含む数万人が死亡し、ペリクレス自身も民衆から将軍職を剥奪され罰金刑を受けた。1年後復権するが、紀元前429年に疫病で没する。臨終に友人達が彼の九つの戦勝記念碑を讃えると、彼は「私のために喪服を着たアテナイ人は一人もいない」と答えたとプルタルコスは伝える。葬送演説で彼が語った「アテネは少数者ではなく多数者の利益のために統治する民主政である」は、2400年後の今も民主政治の古典的定式として読まれ続けている。
専門家としての評価
古代の民主政指導者として、ペリクレスは「カリスマと制度の緊張関係」を体現した。彼は民会で40年間連続して支持を獲得し続けた稀有の弁論家であると同時に、その個人的能力に依存しすぎた民主政が彼の死後20年以内にシチリア遠征の暴走で自壊する遠因も作った。葬送演説のレトリックは現代も引用される一方、デロス同盟資金の流用は被支配ポリスから見れば露骨な帝国主義であり、評価は二面的である。21世紀のリーダーシップ論では「制度を超越するカリスマ」と「制度を蝕むカリスマ」の境界線として再読されている。