政治家 / us_president

アンドルー・ジャクソン

アンドルー・ジャクソン

アメリカ合衆国 1767-03-15 ~ 1845-06-08

第7代アメリカ合衆国大統領(1767-1845)。米英戦争のニューオーリンズの戦い(1815)で英雄となり、初の民主党大統領として庶民派の「ジャクソニアン・デモクラシー」を体現した。第二合衆国銀行廃止と猟官制導入で大統領権限を拡大した一方、1830年のインディアン強制移住法によりチェロキー族らの「涙の道」を招き、生涯で300人超の奴隷を所有した毀誉褒貶の人物である。

この人から学べること

ジャクソンの遺産は現代の指導者に二重の教訓を与える。「金融エリートに対する庶民の代弁者」という政治ブランディングの原型は、SNS時代のポピュリスト・リーダーが意識的に再生産している。他方で彼の影は深い。強制移住法に署名し最高裁判決の執行を拒んだ事実は、強い行政府が法と少数者の権利を踏みにじる古典例である。ビジネス文脈では「銀行戦争」が「Too Big to Fail」議論の最古の素材となり、買収後の旧経営陣を「敵」と烙印する誘惑への警鐘でもある。

心に響く言葉

勇気を持つ一人の人間が、多数派をつくる。

One man with courage makes a majority.

Unverified

ヴァン・ビューレン君、銀行は私を殺そうとしているが、私が銀行を殺してやる。

The bank, Mr. Van Buren, is trying to kill me, but I will kill it.

われらが連邦合衆国。これは必ず守り抜かねばならない!

Our Federal Union: It must be preserved!

富裕で権勢ある者が、政府の行為を己の利己的な目的のためにねじ曲げてしまうことがあまりに多いのは残念なことである。

It is to be regretted that the rich and powerful too often bend the acts of government to their selfish purposes.

合衆国憲法は政府を形作るのであって、連盟ではない。各州は他州とともに一つの国民を構成するべく多くの権限を明白に手放した以上、その時から離脱の権利を持ち得ない。

The Constitution of the United States... forms a government, not a league... Each State having expressly parted with so many powers as to constitute jointly with the other States a single nation, cannot from that period possess any right to secede.

生涯と功績

アンドリュー・ジャクソンは1767年3月15日、南北カロライナ州境のワクスハウ地方で生まれた。スコッチ=アイルランド系移民の父は彼の誕生3週間前に29歳で事故死し、母エリザベスは独立戦争のさなか英軍捕虜の看護中にコレラで没した。13歳で大陸軍の急使を務め、英軍士官の靴磨きを拒んでサーベルで斬りつけられた傷跡を生涯左手と頭に残した。戦争で家族全員を失った彼の「英国式貴族制」への憎悪は終生変わらず、自助で築いた立身出世こそが民主主義の理想だとする世界観の核となった。

独学で1787年にノースカロライナ州の弁護士資格を取得し、フロンティアのナッシュビルに移って急速に頭角を現す。1796年にテネシー州下院議員、翌1797年に上院議員、1798年からテネシー州最高裁判事を務めた。ハーミテージと名付けた綿花プランテーションを経営し、1804年に9人だった黒人奴隷は晩年には150人を超え、生涯で300人を所有した。1801年にテネシー州民兵団大佐となり、1812年の米英戦争では1814年のホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族「レッド・スティック」派を打ち破り、ジャクソン砦条約で約9,300万エーカーの土地を割譲させた。1815年1月8日のニューオーリンズの戦いでは(ガン条約調印を知らないまま)5,000の兵で英軍10,000を撃退、英軍死傷者2,000名に対し米軍死者13名という決定的勝利で全国的英雄となった。「タフな古いヒッコリーの木のように」と兵から呼ばれた愛称「オールド・ヒッコリー」が定着したのもこの頃である。

1824年の大統領選で一般得票で首位ながら過半数に届かず、下院の決選投票でクレイの支持を得たアダムズに敗れた。ジャクソン陣営はこれを「腐敗した取引」と糾弾し、4年かけて新民主党を組織、1828年の選挙でアダムズに圧勝した。妻レイチェルは選挙戦の中傷に苦しみ、就任2カ月前の1828年12月22日に急死。ジャクソンは「妻の死は中傷者が早めた」として終生アダムズを許さなかった。1829年の就任式は群衆がホワイトハウスになだれ込み「キング・モブ」と揶揄される事態となったが、彼自身は自分のアイデンティティを「庶民の味方」に置き、官吏の約1割を入れ替えて支持者を任命する猟官制(スポイルズ・システム)を制度化した。

大統領としての遺産は功罪が鋭く対立する。1830年に署名したインディアン強制移住法は、ミシシッピ以東のチェロキー、チョクトー、クリーク、チカソー、セミノール「文明化五部族」を西部に追放する政策であり、ヴァン・ビューレン政権下で執行された1838年のチェロキー族「涙の道」では数千人が死亡した。最高裁が1832年のウースター対ジョージア判決でジョージア州の権限を違憲としたが、ジャクソンは連邦の力で執行することを拒んだ。1832年のサウスカロライナの無効化危機では一転して州権を否定し連邦の維持を強硬に守り、後のリンカーンの連邦保全論に直接の影響を与えた。第二合衆国銀行を「金権による第四の政府」と見なし、1832年に再認可法案に拒否権を行使、政府預金を引き上げて1836年に解体した。「銀行は私を殺そうとしているが、私が銀行を殺す」と語った彼の銀行戦争は大統領拒否権の革新的拡大であったが、1837年恐慌の遠因ともなった。1835年には米国史上唯一、国家債務をゼロにした大統領である。1835年1月30日には国会議事堂前で初の現職大統領暗殺未遂事件を生き延びた。1837年に退任、1845年6月8日にハーミテージで結核と心不全のため78歳で没した。

専門家としての評価

ジャクソンは米国民主主義史で「庶民派ポピュリズム」の原型を作った政治家である。白人男子普通選挙の制度化、政党による全国組織の構築、大統領の選挙的正統性の主張という三点で近代政党政治の枠組みを定義した。同時に、奴隷所有者かつインディアン強制移住推進者として人種差別の制度化にも深く関与した。共和制の擁護者か独裁的デマゴーグかという評価は完全に二分しており、C-SPAN歴史家ランキングでは2009年の13位から2021年の22位へと評価が低下傾向にある。

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よくある質問

アンドルー・ジャクソンとは?
第7代アメリカ合衆国大統領(1767-1845)。米英戦争のニューオーリンズの戦い(1815)で英雄となり、初の民主党大統領として庶民派の「ジャクソニアン・デモクラシー」を体現した。第二合衆国銀行廃止と猟官制導入で大統領権限を拡大した一方、1830年のインディアン強制移住法によりチェロキー族らの「涙の道」を招き、生涯で300人超の奴隷を所有した毀誉褒貶の人物である。
アンドルー・ジャクソンの有名な名言は?
アンドルー・ジャクソンの代表的な名言として、次の言葉があります:"勇気を持つ一人の人間が、多数派をつくる。"
アンドルー・ジャクソンから何を学べるか?
ジャクソンの遺産は現代の指導者に二重の教訓を与える。「金融エリートに対する庶民の代弁者」という政治ブランディングの原型は、SNS時代のポピュリスト・リーダーが意識的に再生産している。他方で彼の影は深い。強制移住法に署名し最高裁判決の執行を拒んだ事実は、強い行政府が法と少数者の権利を踏みにじる古典例である。ビジネス文脈では「銀行戦争」が「Too Big to Fail」議論の最古の素材となり、買収後の旧経営陣を「敵」と烙印する誘惑への警鐘でもある。