心理学者 / existential

ヴィクトール・フランクル

ヴィクトール・フランクル

オーストリア 1905-03-26 ~ 1997-09-02

オーストリアの精神科医・心理学者 (1905-1997)。フロイトとアドラーに学んだ後、独自の「ロゴセラピー (意味療法)」を打ち立てウィーン第三学派を築く。家族を強制収容所で失いつつ生還、その体験を『夜と霧』(1946) に綴り、世界中の読者に「人生の意味」を突きつけた20世紀実存的心理学の象徴である。

この人から学べること

フランクルが現代に残した最大の遺産は「意味こそ動機の中心である」という命題だ。給料・福利厚生・働き方改革といったハード面 (フランクル用語でいう「環境」) だけでは、人は持続的に動機づけられない。なぜこの仕事をするのか、誰のために、何の意味を生み出すのか、を組織は言語化して提示する必要がある。シリコンバレーの「ミッション・ステートメント」文化や、近年のパーパス経営は、この命題の現代的応用に他ならない。第二に、「刺激と反応の間にある空間」 (本人発言かは disputed) ではなく、本人が実際に書いた「人間に残された最後の自由は、状況に対する自分の態度を選ぶことだ」という命題は、過酷な職場・予期せぬ解雇・闘病など、状況を変えられない場面で個人が依拠できる最後の砦である。第三に、「自由の肯定面は責任である」と説いた彼の警句は、自己決定・選択の自由ばかり強調される現代の自己啓発潮流に対する重要な抑制装置となる。

心に響く言葉

なぜ生きるかを知っている者は、ほとんどあらゆるどう生きるかに耐えられる。

Wer ein Warum zu leben hat, erträgt fast jedes Wie.

刺激と反応の間には空間がある。その空間にこそ、自分の反応を選ぶ力がある。その反応のなかに私たちの成長と自由が宿る。

Between stimulus and response there is a space. In that space is our power to choose our response. In our response lies our growth and our freedom.

Disputed

人から一切を奪うことはできるが、ただ一つだけ奪えないものがある。それは、いかなる状況においても自分の態度を選び、自分の道を選ぶという、人間に残された最後の自由である。

Everything can be taken from a man but one thing: the last of the human freedoms — to choose one's attitude in any given set of circumstances, to choose one's own way.

しかし自由は最後の言葉ではない。自由は物語の一部、真理の半分にすぎない。自由はある全体現象の否定面にすぎず、肯定面は責任性である。

Freedom, however, is not the last word. Freedom is only part of the story and half of the truth. Freedom is but the negative aspect of the whole phenomenon whose positive aspect is responsibleness.

人生が耐え難くなるのは状況のせいではない。意味と目的の欠如のせいである。

Life is never made unbearable by circumstances, but only by lack of meaning and purpose.

生涯と功績

ヴィクトール・エミール・フランクルは1905年3月26日、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで、社会福祉省の役人を父に持つユダヤ人家庭の中子として生まれた。父は社会民主党創設者ヴィクトール・アドラーに敬意を表して息子を「ヴィクトール」と名づけた。高校時代から応用心理学の夜間講義に通うほどの早熟で、十代のうちにジークムント・フロイトと文通を交わし、フロイトはフランクルの論文を雑誌に掲載してくれた。1924年、二本目の論文「心理療法と世界観」をアルフレッド・アドラーの『個人心理学国際誌』に発表したが、人間の中心動機は「意味」だとする独自主張ゆえにアドラー学派からも除名されてしまう。1930年にウィーン大学医学部を卒業し、1933年からシュタインホフ精神病院で女性自殺患者部門を担当。1928-30年に組織したウィーン市内の青少年カウンセリングセンターは大きな成果をあげ、1931年のウィーンでは中等学生の自殺者がついにゼロを記録した。

1938年のオーストリア併合後、ユダヤ人医師の活動は厳しく制限され、1940年にはロートシルト病院神経科部長として、ナチスの安楽死政策から精神障害患者を救う秘密の業務に従事した。1942年9月、結婚9ヶ月目で家族とともにテレージエンシュタット収容所へ送られ、父はそこで栄養失調と肺炎で死亡。1944年10月にアウシュビッツへ移送されたが、彼自身は短期間で別の労働収容所カウフェリンクIII (ダッハウ系列) へと再移送された。妻ティリーはベルゲン=ベルゼンで発疹チフスにより死亡し、母とブラザー・ヴァルターはアウシュビッツのガス室で殺害された。フランクルは合計4つの収容所で3年間を生き延びた。

戦後9日間で『夜と霧』(原題『心理学者は強制収容所を体験する』、1946年ドイツ語初版) を一気に書き上げ、1959年の英訳版以降は世界的ベストセラーとなった。1991年の米議会図書館調査では「アメリカで最も影響力のあった10冊」のひとつに選ばれている。彼が打ち立てた「ロゴセラピー」は、「意味への意志」を中心動機とし、人生に意味を見出す方法を「創造価値」「体験価値」「態度価値」の三つに分類した。具体的技法として、強迫や不安を逆説的誇張で克服する「逆説志向」、症状から注意をそらす「脱反省」、対話を通じて自分なりの意味を発見する「ソクラテス的対話」が知られる。1947年にエレオノーレと再婚、1948年にウィーン大学から哲学博士号を取得、1955年に同大学神経学・精神医学正教授となり、ハーバード等で客員講師も務めた。

ただし業績には批判も併存する。歴史学者ティモシー・パイテルは、アウシュビッツ収容期間が「数日」に過ぎなかったにも関わらず長期収容を匂わせる記述があると指摘した。さらに1937-38年、彼が論文を寄稿したのはナチス系のゲーリング研究所機関誌であり、ロゴセラピーが当時のナチス系心理療法運動と理論的に重なる部分があるとも論じられた (フランクル研究所長バットヤーニはこれに反論)。1988年にはワルトハイム大統領から勲章を受け、ユダヤ系コミュニティから「ナチ協力者」とまで非難される事件もあった。彼は集団責任論を退け、許しを説き続けた。1997年9月2日、彼は心不全で90歳の長い生涯を閉じ、ウィーン中央墓地のユダヤ人区画にいまも静かに眠っている。

専門家としての評価

20世紀心理療法史において、フランクルは「ウィーン第三学派」の創始者として、フロイトの精神分析・アドラーの個人心理学に並ぶ独自体系を築いた人物である。実存主義哲学 (ハイデガー、ヤスパース、シェーラー) を心理療法に体系的に接続した先駆者であり、後にロロ・メイ、アーヴィン・ヤーロムらアメリカ実存主義心理療法、さらにポジティブ心理学の「意味」研究 (セリグマン、スティーガー) へと系譜を伸ばす。ただし収容所体験の脚色疑惑や初期ナチス系研究所への寄稿という負の側面も学術的に指摘されており、評価は単純な英雄譚に収まらない複合的なものである。

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よくある質問

ヴィクトール・フランクルとは?
オーストリアの精神科医・心理学者 (1905-1997)。フロイトとアドラーに学んだ後、独自の「ロゴセラピー (意味療法)」を打ち立てウィーン第三学派を築く。家族を強制収容所で失いつつ生還、その体験を『夜と霧』(1946) に綴り、世界中の読者に「人生の意味」を突きつけた20世紀実存的心理学の象徴である。
ヴィクトール・フランクルの有名な名言は?
ヴィクトール・フランクルの代表的な名言として、次の言葉があります:"なぜ生きるかを知っている者は、ほとんどあらゆるどう生きるかに耐えられる。"
ヴィクトール・フランクルから何を学べるか?
フランクルが現代に残した最大の遺産は「意味こそ動機の中心である」という命題だ。給料・福利厚生・働き方改革といったハード面 (フランクル用語でいう「環境」) だけでは、人は持続的に動機づけられない。なぜこの仕事をするのか、誰のために、何の意味を生み出すのか、を組織は言語化して提示する必要がある。シリコンバレーの「ミッション・ステートメント」文化や、近年のパーパス経営は、この命題の現代的応用に他ならない。第二に、「刺激と反応の間にある空間」 (本人発言かは disputed) ではなく、本人が実際に書いた「人間に残された最後の自由は、状況に対する自分の態度を選ぶことだ」という命題は、過酷な職場・予期せぬ解雇・闘病など、状況を変えられない場面で個人が依拠できる最後の砦である。第三に、「自由の肯定面は責任である」と説いた彼の警句は、自己決定・選択の自由ばかり強調される現代の自己啓発潮流に対する重要な抑制装置となる。