心理学者 / cognitive

ダニエル・カーネマン
IL 1934-03-05 ~ 2024-03-27
イスラエル・アメリカの心理学者・行動経済学者 (1934-2024)。エイモス・トヴェルスキーとの長年の共同研究で「ヒューリスティクスとバイアス」プログラム、Prospect Theory (1979) を打ち立て、2002年にノーベル経済学賞を受賞。著書『ファスト&スロー』(2011) で二重過程理論を一般読者に普及させた、行動経済学の祖父と呼ばれる人物。
この人から学べること
カーネマンの行動経済学が現代に与えた最大の遺産は、「人間は合理的判断者ではなく、ヒューリスティクスとバイアスに従う存在である」という認識を、政策・経営・個人投資に持ち込んだことである。Prospect Theory の損失回避概念は、退職金プラン・保険商品・サブスク解約 UI の設計に応用されている (ナッジ理論)。投資家にとっては、自分の損失回避傾向を自覚することは、暴落時に底値で売ってしまうリスクを下げる第一歩となる。ファスト&スローの二重過程理論は、「速い判断 (システム1) は省エネだが系統的バイアスを孕み、遅い判断 (システム2) は正確だが消耗する」という現代意思決定者の自己メンテナンスの教科書である。ただし2012年以降の再現性危機を踏まえ、個別の認知実験結果を過信せず、頑健な発見 (損失回避・アンカリングなど) と再現性が問題となった発見 (プライミング系) を区別する慎重さも必要だ。
心に響く言葉
人生のいかなるものも、それについて考えているときに思うほど重要ではない。
Nothing in life is as important as you think it is when you are thinking about it.
私たちは明白なことに対して盲目になり得る。そしてその盲目さに対してもまた盲目である。
We can be blind to the obvious, and we are also blind to our blindness.
人々に虚偽を信じさせる確実な方法は反復である。慣れ親しんだものは真実と容易には区別されないからだ。
A reliable way to make people believe in falsehoods is frequent repetition, because familiarity is not easily distinguished from truth.
損失は利得より大きく感じられる。
Losses loom larger than gains.
判断のあるところには必ずノイズがある。しかも、あなたが思うよりずっと多くのノイズが。
Wherever there is judgment, there is noise — and more of it than you think.
生涯と功績
ダニエル・カーネマンは1934年3月5日、現テルアビブ (当時イギリス委任統治領パレスチナ) で、リトアニア系ユダヤ人移民の両親のもとに生まれた。幼少期はパリで過ごし、1940年のナチス占領下を生き延びる過酷な体験をしている。SSの黒い制服を着たドイツ兵に呼び止められ、ユダヤの星を裏返したセーターを着ていた少年カーネマンが抱きしめられ、息子の写真と小銭を渡されたという挿話を彼自身が記している。「人間は果てしなく複雑で興味深い」という母の言葉を、彼はこの体験で確信したと書く。1948年、イスラエル独立直前の地に一家で移住。
1954年にヘブライ大学で心理学・数学の学士を取得し、イスラエル国防軍の心理学部門で兵士採用のための構造化面接を設計、これは数十年にわたり国防軍で使用された。1958年に渡米し、1961年カリフォルニア大学バークレー校で博士号取得。1961年にヘブライ大学講師、66年に上級講師となり、初期は視覚知覚と注意の研究を行っていた。「注意と努力」 (1973) では瞳孔反応をもとにした努力理論を提示した。
決定的な出会いは1969年、ヘブライ大学のゼミに招かれたエイモス・トヴェルスキーである。二人は1971年から1979年にかけて7本の共著論文を発表し、ペンを共有しコイン投げで第一著者を決めるほどの濃密な共同作業を続けた。1974年の Science 誌論文「不確実性下の判断: ヒューリスティクスとバイアス」では代表性・利用可能性・アンカリングといった概念を初めて体系化。1979年に Econometrica 誌に発表した Prospect Theory (見通し理論) は、損失回避・参照点依存・確率の歪み (確率重み付け関数) を組み込んだ意思決定モデルで、合理的経済人モデルの基礎前提を心理学実験で根本から覆した。同論文は経済学で最も引用される論文の一つとなり、行動経済学を生む土台となった。
1978年にヘブライ大学を離れ、ブリティッシュコロンビア大学、バークレー校、プリンストン大学を歴任。1996年にトヴェルスキーが59歳でメラノーマで早世したため、2002年のノーベル経済学賞は単独受賞となった。受賞講演で彼は「賞は私のものではなくエイモスと共有すべきだった」と公言した。2011年の『ファスト&スロー』はシステム1 (速い・直観) とシステム2 (遅い・分析) の二重過程理論を一般読者に届け、世界的ベストセラーとなる。2021年にはオリヴィエ・シボニー、キャス・サンスティーンと共著で『ノイズ』を発表、意思決定の体系的バイアスではなくランダムなばらつき (ノイズ) こそ重大な問題であると論じた。一方で行動経済学全般は2012年以降の再現性危機の影響を受け、特にプライミング効果関連の研究は深刻な検証問題に晒された。本人もこの状況を率直に認めて晩年は研究の修正に取り組んだ。妻であった認知心理学者アン・トライスマンを2018年に喪った後、晩年は故トヴェルスキーの未亡人バーバラ・トヴェルスキーがパートナーであった。2024年3月27日、彼は90歳の誕生日からわずか3週間後、スイスの自殺幇助団体ペガソスを通じてヌニンゲンの地で穏やかに世を去った。妻アンが認知症の苦しみのなかで世を去った経験が、晩年の彼自身の最後の選択にも色濃く影響したと、後年その死の場所と方法を明らかにしたジェイソン・ツヴァイクの記事は伝えている。
専門家としての評価
20世紀後半の認知心理学・行動経済学の双方を実質的に創始した人物として独自の位置を占める。トヴェルスキーとの共著群は、サイモンの「限定合理性」を実証的に肉づけし、シカゴ学派の合理的経済人モデルへの最大の挑戦となった。リチャード・セイラーらのナッジ理論・行動ファイナンスは直系の系譜にある。ノーベル経済学賞 (2002) を受賞した唯一の心理学者であり、晩年の『ノイズ』(2021) ではバイアスからランダム誤差へと問題設定を拡張した。