心理学者 / psychoanalysis

アンナ・フロイト
イギリス 1895-12-03 ~ 1982-10-09
オーストリア生まれの英国精神分析家(1895-1982)。フロイトの末娘として父の事業を継承し、児童精神分析と自我心理学の開拓者となった。『自我と防衛機制』(1936)は防衛機制の体系化で精神分析を一変させた。1938年に英国亡命後、ハンプステッド戦争児童ホームと児童療法クリニックを創設。メラニー・クラインとの「論争的討論」で学派分裂を招いた一方、父の遺産擁護に徹したことが革新の足枷ともなった。
この人から学べること
アンナ・フロイトの『自我と防衛機制』は、現代の組織人事・コーチング・自己マネジメントの基礎言語を提供する。「否認」「合理化」「投影」「昇華」といった用語は今や日常語だが、それらを臨床的に体系化したのが彼女である。リーダーが部下のパフォーマンス低下を見るとき、能力不足とみなす前に、どの防衛機制が稼働しているかを問う視点は強力な診断ツールとなる。同時に彼女の生涯は「正統の擁護」が革新を妨げ得るという反面教師でもある。創業者の遺産を継ぐ後継経営者、師の理論を守る研究者、家族企業の二代目は、忠誠と批判的更新のバランスを彼女から学べる。
心に響く言葉
我々は生という領域に閉じ込められている—小舟の船乗りが無限の大海原に閉じ込められているように。
We are imprisoned in the realm of life, like a sailor on his tiny boat, on an infinite ocean.
夢の中では卵を望み通りに調理してもらえる—しかしそれを食べることはできない。
In our dreams we can have our eggs cooked exactly how we want them, but we can't eat them.
私は強さと自信を常に自分の外に求めていた—しかしそれは内側から生まれる。それは常にそこにある。
I was always looking outside myself for strength and confidence but it comes from within. It is there all the time.
自我はイドに駆り立てられ、超自我に拘束され、現実に拒絶されながら、自己に作用する諸力の調和をもたらすという経済的課題を成し遂げようと格闘する。
The ego, driven by the id, confined by the super-ego, repulsed by reality, struggles to master its economic task of bringing about harmony among the forces and influences working in and upon it.
生涯と功績
アンナ・フロイトは1895年12月3日、ジークムント・フロイトとマルタ・ベルナイスの六番目で末子としてウィーンに生まれた。家庭は裕福だったが、彼女は母との関係に乏しく、長姉ソフィーと「美と知性」という伝統的姉妹葛藤を抱えながら育った。父との結びつきは特別で、彼女は青年期から父が主宰するウィーン精神分析協会の会合に同席することを許された。コッタージ・リセウムを卒業後の1914年に教員資格を取得し、母校で1918年まで小学校教師として働くが、結核と度重なる体調不良で辞職した。
1918年から父との分析が始まる—現代倫理では二重関係の禁忌だが、当時の慣習では稀ではなかった。1922年の処女論文『殴打空想と白昼夢』はウィーン精神分析協会で発表され、彼女自身の内的素材を扱う点で異色だった。1923年から児童分析の実践を開始、1925年にはウィーン精神分析訓練研究所で児童分析技法を講じ、1927年に最初の著書『児童分析の技法入門』を刊行した。同年、彼女と恋愛・パートナー関係に発展するドロシー・バーリンガム(ティファニー創業家の相続人)がニューヨークから来訪し、生涯の伴侶となる。1923年に父が顎癌と診断されると、アンナは秘書・代弁者・看護人を兼ね、国際精神分析学会の事務局長を1925-1934年に務めた。
1936年の主著『自我と防衛機制(Das Ich und die Abwehrmechanismen)』は、抑圧・退行・反動形成・隔離・打消し・投影・取入れ・自己への向け換え・反転・昇華といった防衛機制を体系化し、自我心理学の建国文書となった。父が無意識(イド)研究に重点を置いたのに対し、彼女は自我の働きそのものを精緻に記述した。同書は彼女自身の臨床経験を素材にしつつ、理論的権威は父の著作に依拠するという、生涯にわたる「父の遺産擁護者」としての立ち位置を象徴する。
1938年のアンシュルス(ナチスドイツのオーストリア併合)後、彼女はゲシュタポの取り調べを受け、家族医師マックス・シュアから自殺用ヴェロナールを密かに入手していた。アーネスト・ジョーンズの尽力で家族はロンドン20マレスフィールド・ガーデンズへ亡命、1939年に父が死去した後、彼女は1941年にバーリンガムと共にハンプステッド戦争児童ホームを設立、戦災孤児や強制収容所生還児(ブルドッグ・バンクス・ホーム)の観察研究を行った。1952年にはハンプステッド児童療法クリニック(現アンナ・フロイト・センター)を創設、児童分析の訓練・治療・研究の世界的拠点となる。1965年の『児童期の正常と病理』では「発達ライン(developmental lines)」という独自概念を提示し、依存から情緒的自立へ至る正常発達の理論的地図を描いた。
影の側面も少なくない。1941-1945年の「論争的討論」では、ロンドンに先着していたメラニー・クラインと激しく対立し、英国精神分析学会を分裂寸前まで追い込んだ。誕生時の超自我の有無、遊びと自由連想の等価性、エディプス前段階の解釈をめぐる対立は、最終的にクライン派・アンナ・フロイト派・独立派の3並行訓練という妥協で決着した。彼女は国際精神分析学会の方針として同性愛者を訓練候補者から排除する立場を強く擁護し、これは伝記作家エリザベート・ルディネスコらに「自身の同性愛欲動の抑圧の臨床的反映」と指摘された。父の理論的正統を守る忠誠は深く誠実だったが、それは精神分析の革新を一面で停滞させた側面もある。1973年に国際精神分析学会名誉会長に就任、1967年にCBEを叙勲され、1982年10月9日にロンドンで死去した。父と並び葬られた彼女の遺骨は、フロイト博物館となった生家の隣に安置されている。
専門家としての評価
20世紀児童精神分析と自我心理学の双方の建国者の一人。防衛機制の体系化は現代心理学・人事・コーチングの共通語彙となり、ハンプステッド児童療法クリニックは戦災孤児ケアと児童分析訓練の世界的拠点を遺した。一方、父の遺産擁護に徹したことで革新性は減速し、メラニー・クラインとの「論争的討論」は英国学会分裂を招いた。同性愛者の訓練候補排除を擁護した立場は、自身の生涯にわたるドロシー・バーリンガムとの関係への抑圧との関連で批判される。