政治家 / medieval_european

マーガレット・オブ・アンジュー
イギリス 1430-04-01 ~ 1482-09-03
イングランド王ヘンリー6世の王妃(1430-1482)、薔薇戦争ランカスター派の実質的指導者。仏ヴァロワ=アンジュー家出身で1445年に英王と結婚、夫の精神疾患悪化に伴い王国を代行統治した。1455年に始まる内戦で自ら軍を率い、1471年テュークスベリーで敗れ唯一の息子エドワード王太子を失った。ロンドン塔幽閉後仏に送還、シェイクスピア劇で「フランスの雌狼」と描かれた最も能動的な王妃である。
この人から学べること
マーガレットは「形式的地位」と「実質的指導」のずれを生き抜いた女性指導者である。摂政の正式任命を受けずに軍事・外交・政治判断を引き受けた彼女は、公式肩書なくリーダーシップを発揮する場面の歴史的範例である。第二に「敵への苛烈さがブランドを損なう逆説」。第二次セント・オールバンズで捕虜処刑を命じた苛烈さが「フランスの雌狼」イメージを固定化した。第三に「同盟設計の難しさ」。長年の仇敵ウォリック伯との1470年同盟は短命で、息子も自身もすべてを失った。クイーンズ・カレッジ創設者の遺産と内戦のヒロイン像という両義性が、現代の意思決定者に複合的教訓を残す。
心に響く言葉
フランスの雌狼、しかしフランスの狼よりもなお悪辣な、その舌は毒蛇の歯よりも毒を持つ!
She-wolf of France, but worse than wolves of France, Whose tongue more poisons than the adder's tooth!
汝の性別にはいかに似つかわしくないことか、運命に捕らわれた者の不幸の上で、アマゾネスの淫婦のように勝ち誇るとは。
How ill-beseeming is it in thy sex, To triumph like an Amazonian trull, Upon their woes whom Fortune captivates.
我が子よ、これらの騎士たちにはいかなる死を与えるべきか。
Fair son, what death shall these knights die?
王妃より。
By the Quene.
彼女の勇敢な勇気と不屈の精神。
Her valiant courage and undaunted spirit.
生涯と功績
マーガレット・オブ・アンジューは1430年3月23日、神聖ローマ帝国領ロレーヌ公領ポン=タ=ムッソンで生まれた。父はナポリ・シチリア・エルサレム王位を称しアンジュー公を兼ねた「善良王ルネ」、母はロレーヌ女公イザベル。家系の女性たちは政治・戦争・行政で活発であった。母イザベルは夫がブルゴーニュ公に囚われていた1431-36年に戦争を指揮しロレーヌを統治、父方祖母アラゴンのヨランドはアンジュー摂政としてシャルル7世を擁立した。マーガレットは幼少期から母と祖母の摂政・軍事指揮の前例を身近に観察して成長した。
1444年5月、14歳でヘンリー6世との結婚交渉のためトゥールで英使節に対面。仲介はサフォーク伯とボーフォート枢機卿で、英仏百年戦争の和平政略結婚であった。トゥール条約は持参金なしで英側がメーヌを返還し23ヶ月の休戦を得る条件。1445年4月23日にタイチフィールド大修道院で挙式、5月30日ウェストミンスター寺院でイングランド王妃として戴冠した。
結婚初期は教育・文化への共通関心で夫と結ばれ、1448年3月にケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジ設立特許状を取得、現在も創立者として記憶されている。だが1448年のメーヌ割譲は国内で「裏切り」と強い反発を呼び、サフォーク公は1450年に暗殺された。同年ジャック・ケイドの反乱で宮廷は混乱、1453年8月カスティヨンで百年戦争敗北を受けヘンリー6世は精神錯乱状態に陥り、同年10月13日に唯一の息子エドワードを出産した。マーガレットは摂政就任を要求したが、評議会はヨーク公リチャードを護国卿に任命した。
ここから薔薇戦争が始まる。1455年5月22日の第一次セント・オールバンズの戦いでヨーク派が勝利、サマセット公エドムンドが戦死。精神不安定な夫に代わって彼女はランカスター派の旗印となり、サマセット公ヘンリー、ノーサンバランド伯、ペンブルック伯ジャスパー・テューダーら有力貴族と連携した。1460年12月のウェイクフィールドではヨーク公とソールズベリー伯を討ち取り首をヨーク市門に晒した。1461年2月17日の第二次セント・オールバンズで親臨してウォリック伯を破り、捕虜2騎士の助命を夫が約束したにもかかわらず処刑を命じた。この苛烈さが「フランスの雌狼」のイメージを形成、シェイクスピア『ヘンリー六世』第3部の罵倒場面の原型となった。
1461年3月29日のタウトンでエドワード4世に大敗、息子と夫を連れスコットランドへ逃れた。1462年渡仏してルイ11世から800人の小規模援軍を得たが状況は好転せず、1465年ヘンリー6世がロンドン塔に投獄され抵抗は事実上終わった。1470年4月のエドワード4世とウォリック伯の決裂が最後の機会を与えた。仇敵同士のマーガレットとウォリック伯は7月に同盟、伯の娘アン・ネヴィルと息子エドワード王太子の結婚で関係を強化、同年10月のクーデターでヘンリー6世は復位したが半年で潰える脆弱な政権であった。
1471年4月14日、エドワード4世がバーネットでウォリック伯を破った2日後にマーガレットは上陸。5月4日のテュークスベリーの戦いで自ら軍を率いたが大敗、17歳の息子エドワード王太子は戦闘中もしくは戦後に殺害された。スタンリーに捕らえられた彼女は息子の死を告げられ精神的に完全に折れ、最初ウォリングフォード城、次いでロンドン塔に幽閉された。同じく塔に幽閉されていたヘンリー6世も夜のうちに殺害された。1475年のピキニー条約でルイ11世が身代金を支払い釈放、王妃称号と寡婦財産を放棄する条件付きでフランスに帰国した。
フランスでは旧領アンジューの相続権までルイ11世に取り上げられ、貧困のうちに親族のもとに身を寄せた。1482年8月25日、アンジュー近郊ダンピエール城で52歳で死去。後世評価は二分する。サフォーク公が「勇敢な勇気と不屈の精神」を称え、エドワード・ホールが「肝の据わりと勇気は女よりむしろ男のそれ」と評する一方、ヨーク派排除が30年の内戦の引き金になったと批判される。シェイクスピアの4作品(『ヘンリー六世』1-3部+『リチャード三世』)を通して彼女は唯一すべての劇に登場する人物となり、中世末期で最も能動的・悲劇的な王妃像として文学的生命を獲得した。
専門家としての評価
中世末期イングランドの政治史において、マーガレット・オブ・アンジューは「王妃でありながら実質的な軍事指導者と化した稀有な人物」として位置づけられる。夫ヘンリー6世の精神疾患という危機が彼女に統治を強い、薔薇戦争ランカスター派の旗印として自ら軍を率いた事跡は、女性君主・摂政の系譜(母イザベル、祖母ヨランド・ダラゴン)を継承するものでもあった。だがメーヌの英領割譲・捕虜処刑の苛烈さ・ウォリック伯との同盟失敗が30年の内戦長期化を招き、息子と王朝を失った。シェイクスピアの4作品を通じて中世末期最も能動的な王妃像が後世に固定化された。