音楽家 / 日本美術
山田耕筰
日本 1886-06-09 ~ 1965-12-29
1886年東京生まれ、日本初の交響曲を作曲し、日本の洋楽界の基盤を築いた作曲家・指揮者。ベルリンでマックス・ブルッフに師事し、帰国後は管弦楽曲から歌曲まで約1600曲を作曲した。「赤とんぼ」「この道」など700曲に及ぶ芸術歌曲は日本歌曲の最高峰に位置する。指揮者としてドビュッシー、ドヴォルザークなど西洋音楽の日本初演を数多く実現した。
この人から学べること
山田耕筰のキャリアは、文化インフラの構築者としての教訓に満ちている。第一に、「先進国での修業と母国への還元」というモデルがある。ドイツで最先端の技法を学び、帰国後に日本の音楽基盤を築いた彼の軌跡は、海外で学んだ知見を自国の産業発展に活かすリバース・イノベーションの原型である。第二に、「量と幅の両立」がある。交響曲からオペラ、芸術歌曲、合唱曲まで1600曲を残した多作ぶりは、一つの分野に閉じこもらず幅広く価値を創出する重要性を示す。第三に、「紹介者としての功績」がある。西洋音楽の日本初演を数多く実現した指揮活動は、自ら創造するだけでなく、優れたものを自国に持ち込む「目利き」としての価値を証明している。
心に響く言葉
生涯と功績
山田耕筰は、日本の洋楽の父とも称される作曲家・指揮者である。日本人として初めて完全な四楽章構成の交響曲を書き、約1600曲に及ぶ膨大な作品を残し、指揮者として西洋のオーケストラ作品を日本に紹介した。
山田は1886年(明治19年)に東京に生まれた。1904年に東京音楽学校に入学し、ドイツ人教師アウグスト・ユンカーとハインリッヒ・ヴェルクマイスターに学んだ。1910年に渡独し、プロイセン芸術アカデミーでマックス・ブルッフとカール・レオポルド・ヴォルフに作曲を師事。1913年末に帰国した。
1912年に作曲した交響曲ヘ長調「勝利と平和」は、日本初の完全な四楽章交響曲であり、冒頭にはト-イ-ニ-ホという五音音階のテーマが現れ、雅楽に基づく日本国歌を反映している。1918年にはアメリカに渡り、2年間ニューヨークに滞在。ニューヨーク・フィルとニューヨーク・シンフォニーのメンバーで構成された臨時オーケストラを指揮した。
1921年の交響詩「明治頌歌」では篳篥など日本の伝統楽器を管弦楽に組み込む試みを行った。歌曲の分野では、学校・自治体からの委嘱作品を除いても約700曲の芸術歌曲を残した。「赤とんぼ」(1927年)は最も有名な作品であり、他に「この道」「からたちの花」「ペチカ」なども広く親しまれている。これらの歌曲はキャスリーン・バトル、エルンスト・ヘフリガー、米良美一など国際的な歌手にも演奏・録音されている。
オペラでは「黒船」が日本オペラの代表作とされる。指揮者としては、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』、ドヴォルザークの交響曲第9番、ガーシュウィンの『パリのアメリカ人』、シベリウスの『フィンランディア』、ショスタコーヴィチの交響曲第1番など、数多くの西洋作品の日本初演を実現した。
1965年12月29日、東京の自宅で心臓発作により死去。79歳であった。
専門家としての評価
山田耕筰は日本初の交響曲作曲家であり、日本の洋楽界の基盤を一人で築いた功績は計り知れない。ドイツ後期ロマン派の管弦楽法を基盤としつつ、五音音階や日本の伝統楽器を積極的に取り入れ、日本人独自の管弦楽語法を模索した。芸術歌曲では日本語の抑揚と西洋の旋律法を自然に融合させ、シューベルトやシューマンのリート伝統を日本語で実現した。指揮者としての西洋音楽紹介活動も含め、日本の音楽文化の近代化に最も大きく貢献した人物である。