音楽家 / 近代・現代
冼星海
中国 1905-06-13 ~ 1945-10-30
1905年マカオ生まれ、中国近代音楽の先駆者。パリ音楽院でデュカスに師事した最初の中国人留学生であり、帰国後は日中戦争下で音楽を武器に抗日活動に参加した。代表作『黄河大合唱』は中国で最も有名なクラシック音楽作品であり、交響曲、協奏曲、合唱曲、歌曲など300以上の作品を残した。1945年、モスクワで結核により40歳で死去。
この人から学べること
冼星海の生涯は、芸術を社会変革の手段とすること、そして国際的な学びを自国の文脈に応用することの力を示す。第一に、「技術の国際的習得と国内還元」がある。パリ音楽院で西洋作曲技法の最高峰を学び、帰国後それを中国の文化的文脈に適用した手法は、海外で先進技術を習得し自国市場に最適化して展開する戦略の先駆である。第二に、「芸術を通じたムーブメント形成」がある。『黄河大合唱』が国民的な抗日精神の象徴となったように、優れたコンテンツは社会運動の核となりうることを示す。第三に、「逆境下での創造」がある。戦時下の物資不足や亡命先での孤立の中でも作曲を続けた姿は、制約条件下でも成果を出し続けるレジリエンスの模範である。
心に響く言葉
私には二つの武器がある。一つはペン、もう一つは指揮棒だ。
I have two weapons: one is my pen, the other is my baton.
生涯と功績
冼星海は、西洋クラシック音楽の技法を中国に導入した最初期の作曲家であり、中国近代音楽史において最も影響力のある人物の一人である。
1905年、ポルトガル領マカオに水上生活者(タンカ)の家庭に生まれた。父は出生前に亡くなり、母とともに各地を転々とした。6歳でシンガポールに移り、養正小学校で音楽教師の区健夫に才能を見出され、学校の軍楽隊に入った。その後広州に移り、嶺南大学付属のYMCA学校でクラリネットを学び始めた。
1926年に北京大学音楽伝習所、1928年に上海国立音楽院でヴァイオリンとピアノを学んだ。同年、論文「普遍的な音楽」を発表。1929年にパリに渡り、ヴァンサン・ダンディに学んだ後、1934年にパリ音楽院に中国人として初めて入学し、ポール・デュカスに高等作曲を師事した。
1935年に帰国後、日本軍占領下の中国で音楽を抗日運動の武器とした。「救国」「遊撃隊の歌」「太行山にて」など、人民を鼓舞する声楽作品を次々と発表。1938年、延安の魯迅芸術学院音楽学部長に就任し、『黄河大合唱』と『生産大合唱』を作曲した。『黄河大合唱』は後に『黄河ピアノ協奏曲』に編曲され、中国で最も知られるクラシック音楽作品となった。
1940年、ドキュメンタリー映画の作曲のためソ連に渡るが、独ソ戦の勃発で帰国の途を断たれ、カザフスタンのアルマトイに足止めされた。この地で交響曲『民族解放』『聖戦』や管弦楽組曲を作曲した。過労と栄養不足から結核を発症し、1945年10月30日、モスクワで死去。40歳。300以上の作品と35の論文を残した。
専門家としての評価
冼星海は中国近代音楽の開拓者であり、西洋クラシック音楽の技法と中国の民族的素材を融合させた最初期の作曲家である。パリ音楽院でデュカスに学んだ本格的な作曲技術を基盤に、中国民謡の旋律と西洋の大規模合唱形式を結合した『黄河大合唱』は、中国クラシック音楽の金字塔となった。戦時下という極限状況が生んだ芸術は、音楽が持つ社会的機能の最も強烈な例証の一つである。