政治家 / european_statesman

ナポレオン3世
フランス 1808-04-20 ~ 1873-01-09
フランス第二共和政大統領・第二帝政皇帝(1808-1873)。ナポレオン1世の甥として亡命と獄中生活を経て1848年に大統領当選、1851年クーデターで独裁権を掌握し1852年に皇帝即位した。パリ大改造・近代金融・自由貿易を推進、クリミア戦争を勝利したが、メキシコ遠征失敗と1870年普仏戦争セダンの敗北で第二帝政を崩壊させたフランス史最後の君主である。
この人から学べること
ナポレオン3世の遺産は、現代の起業家・政治家に三つの示唆を投げかける。第一に『複数の支持基盤を同時に取り込む選挙戦略』の古典的成功例。1848年大統領選で彼は保守派向け・穏健共和派向け・社会主義者向けの新聞を並列発行し、八方美人戦略で74%の得票を得た。一方この戦略は支持基盤の矛盾を制度化し、彼の治世はその矛盾の調整で消耗した。第二は都市インフラ投資の長期収益性。13年のパリ大改造は短期的に膨大な赤字を生んだが、150年後の現在もパリ観光業の中核として収益を生む歴史事例である。鉄道網倍増もまた典型的な長期投資事例。第三は外交の認知バイアスへの警鐘。クリミア・イタリア戦争の連勝でビスマルクの戦略的罠を読みきれず、準備不足のまま普仏戦争に突入してセダンで全てを失った。連戦連勝の指導者ほど『次も勝てる』バイアスに脆弱という古典事例である。
心に響く言葉
帝政、それはすなわち平和である。
L'Empire, c'est la paix.
民衆はあらゆる力のなかで最強であり、最も正しい。隷属と過激を嫌い、籠絡されることがない。彼らは常に自らにふさわしい者を見抜く。
Le peuple est la plus forte de toutes les forces et la plus juste. Il déteste la servitude et l'extrême. On ne le suborne pas. Il sent toujours ce qui est digne de lui.
『ナポレオン』という名前それ自体が、ひとつの完全な政治綱領なのである。
Le nom de Napoléon est à lui seul tout un programme.
貧困は根絶せねばならない。
Il faut éteindre le paupérisme.
われわれは粉砕されるであろう。
Nous serons écrasés.
生涯と功績
シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトは1808年4月20日、ホラント王ルイ・ボナパルト(ナポレオン1世の弟)と王妃オルタンス(ジョゼフィーヌの娘)の三男としてパリに生まれた。1815年のワーテルロー敗戦後にブルボン復古王政から国外追放され、母とともにスイス・アレネンベルクとバイエルン・アウクスブルクで成長、ドイツ語訛りのフランス語を生涯離さなかった。1830年にローマでカルボナリのイタリア統一運動に参加して教皇庁に追放、その後文芸活動と社会主義(サン=シモン主義)研究を深めた。
1836年ストラスブール一揆、1840年ブローニュ一揆を起こすが、いずれも失敗。後者で終身刑を受けアム要塞に5年半服役した。獄中の「アム大学」では『貧困の根絶』(1844)で労働者保護を主張し、ボナパルティズムに社会改革の装いを加えた。1846年5月、変装して脱獄しロンドンへ亡命した。1848年2月革命で7月王政が崩壊すると6月補欠選挙で当選、12月10日の大統領選挙では『ナポレオン』姓の知名度・両王党派の消極支持・愛人ミス・ハワードらの選挙資金で74.2%の圧勝を遂げ、2年前の脱獄囚から第二共和政大統領へと躍進した。
大統領期は秩序党が支配する国民議会と対立、ローマ侵攻で教皇庁を救った後、議会の保守派から見限られていった。1851年12月2日、ナポレオン戴冠記念日にあたるこの日、異父弟モルニー主導でクーデターを決行し議員を逮捕、1852年1月に大統領独裁を制度化する新憲法を発布、12月2日には皇帝即位を国民投票で承認させ「ナポレオン3世」となった。前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配、1860年代から「自由帝政」へ徐々に移行した。
内政ではサン=シモン主義に基づく経済自由化を進め、クレディ・モビリエ等の近代投資銀行が産業融資を担い、1860年英仏通商条約で自由貿易を推進した。1853年から13年にわたるオスマン男爵によるパリ大改造で広い直線大通り・上下水道・公園緑地が整備され、現代パリの骨格が形成された。鉄道網は彼の即位時1万kmから退位時2万kmに倍増した。外交では1853-56年クリミア戦争で英国と組みロシアに勝利、伯父が崩したウィーン体制を破壊した。1859年イタリア統一戦争でサルデーニャと組みオーストリアと戦い、サヴォワとニースを獲得した。植民地はアルジェリア統治、コーチシナ併合、カンボジア保護国化など3倍に拡大した。
しかし1862-67年メキシコ遠征は壊滅的失敗となり、傀儡皇帝マクシミリアン1世を見捨てて撤退、彼は処刑された。1870年スペイン王位継承問題を巧妙に操ったビスマルクの罠で、対プロイセン戦に追い込まれる。準備不足のフランス軍は連戦連敗、9月2日セダンの戦いで皇帝自身が10万の将兵とともにプロイセン軍捕虜となり、9月4日パリで第二帝政は崩壊、第三共和政が宣言された。1871年釈放後イギリスへ亡命、復位を計画したが1873年1月9日に膀胱結石手術後に死去。マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で彼を風刺し、ユゴーは『小ナポレオン』で痛烈に批判したが、近年はパリ大改造・経済政策など内政面で再評価論が出ている。第二帝政崩壊以後フランスは現代に至るまで一貫して共和政であり続けたため、彼はフランス史上最後の君主として記憶される人物となった。
専門家としての評価
近代国民国家形成期の指導者として、ナポレオン3世は『国民投票による独裁』(plebiscitary dictatorship)の原型を作った政治家である。普通選挙とクーデターを結合させた彼の手法は、20世紀の人民投票型独裁(ナチス・各種ボナパルティズム亜種)の先駆となった。一方、パリ大改造・自由貿易・近代金融など経済近代化では成功も多く、内政再評価が進む。マルクス『ブリュメール18日』とユゴー『小ナポレオン』の痛烈批判と、近年の再評価論の間で位置づけが揺れ動く複合的政治家である。