政治家 / european_statesman

クレメンス・フォン・メッテルニヒ
オーストリア 1773-05-15 ~ 1859-06-11
オーストリア帝国外相・宰相(1773-1859)。1809年外相就任、1814-15年ウィーン会議を主宰し勢力均衡と正統主義によるウィーン体制を構築した。30年に及ぶ「メッテルニヒ・システム」は欧州大規模戦争を抑止したが、カールスバート決議で自由主義・民族主義を弾圧、1848年三月革命で失脚した複合的保守政治家。
この人から学べること
メッテルニヒの遺産は現代の国際秩序論と組織保守主義に二重の示唆を投げかける。第一は『勢力均衡による平和構築』モデルの実証である。彼の主導したウィーン体制は欧州大規模戦争を約40年抑止し、1648年ウェストファリア体制と並ぶ古典的成功例とされる。米中対立期の現代秩序設計者にとって、対立する大国を協調による牽制に組み込む彼の手法はキッシンジャー以降も研究対象であり続けている。一方、彼の正統主義は産業化・市民社会化・民族意識覚醒の構造変化に適応できず1848年に瓦解した。安定の制度設計は構造変化への適応条項を内蔵せねば崩壊するという教訓である。第二は抑圧的安定の倫理コストである。彼のカールスバート決議や検閲は短期的な安定をもたらしたが、学術と思想の自由を毀損し、長期的に体制への正統性そのものを侵食した。
心に響く言葉
パリが鼻風邪をひけば、欧州全土が冷えこむ。
Quand Paris s'enrhume, l'Europe prend froid.
イタリアとは一つの地理的表現に過ぎない。
L'Italie est une expression géographique.
歴史こそ政治の真の学校である。
Die Geschichte ist die wahre Schule der Politik.
私は秩序の岩盤である。
Je suis un rocher de l'ordre.
私が望んだのは単純なことだ。既存のものを保持することである。
Was ich gewollt habe, war einfach: das Bestehende zu erhalten.
生涯と功績
クレメンス・フォン・メッテルニヒは1773年5月15日、ライン左岸のトリーア選帝侯領コブレンツに伯爵家の長男として生まれた。父は神聖ローマ皇室の外交官、母はライン地方のフランス語圏文化に深く属していたため、メッテルニヒは生涯ドイツ語よりフランス語を流暢に話した。1788年にストラスブール大学で法学を学び始めたが、翌年のフランス革命勃発で1790年に同地を脱出、マインツ大学で保守的な教育を受けた。革命軍がアルザス・ラインラントを占領し家族領地のほとんどを没収した経験は、彼の生涯にわたるナショナリズム警戒の原体験となった。
1794年に英国に派遣されジョージ3世・ウィリアム・ピット・チャールズ・ジェイムズ・フォックス・エドマンド・バークと面会、バークの保守思想を直接吸収する。1795年9月、亡命先のウィーンで前宰相カウニッツ侯の孫娘エレオノーレと結婚し、ハプスブルク宮廷との縁戚関係を獲得した。1801年からドレスデン、1803年からベルリン、1806年からパリ大使として急速に階段を昇り、フランス時代にはナポレオン・タレーランと直接の交渉経験を蓄積した。
1809年、フランツ1世の外相に就任。1810年にはナポレオンと皇女マリー・ルイーゼの結婚を仲介、屈辱的な対仏融和を演出してオーストリア帝国の存続を確保した。1813年、ナポレオンの対露遠征失敗を機に再武装し、ライプツィヒの諸国民戦争を勝利に導いた。同年10月、侯爵位を授与される。1814年9月から1815年6月のウィーン会議では、フランス全権タレーラン、英国カスルレー、ロシア皇帝アレクサンドル1世・プロイセン宰相ハルデンベルクを相手に勢力均衡と『正統主義』を骨格とする欧州秩序を構築した。会議は『会議は踊る、されど進まず』と揶揄されたが、彼の主導した協調体制(後の四国同盟・五国同盟・神聖同盟)は1853年のクリミア戦争まで欧州規模戦争を抑止する。これは18世紀の連続戦争・21世紀の二度の世界大戦と比べて画期的成果である。
ウィーン会議後、彼の使命はこの秩序の維持となる。1819年のドイツ学生運動家ザントによるコッツェブー暗殺を機に同年カールスバート決議を起草、ドイツ連邦全域で大学監視・出版検閲・学生団体(ブルシェンシャフト)の禁止を制度化した。1820年代の南欧自由主義革命にはトロッパウ・ライバッハ・ヴェローナの三会議で軍事介入を組織し、ナポリ・ピエモンテ・スペインの立憲運動を粉砕した。これらの実績は彼を「ヨーロッパの憲兵」と呼ばせ、自由主義者・民族主義者にとっては抑圧の象徴となる。同時期、彼は皇帝フランツ1世のもとで国内検閲・スパイ網を拡充し、批判言論を封じた。
1821年に宰相職を兼任。だが1830年代の産業化と自由主義化、1840年代の物価高騰・凶作・農民運動の波には抗いきれなかった。1848年3月13日、フランス二月革命の余波がウィーンに到達、群衆と国民衛兵が宮殿前広場を包囲した。彼は同日辞任、変装してロンドンへ亡命した。1851年にウィーンへ帰国、隠居生活のなかで青年皇帝フランツ・ヨーゼフに助言する元老となり、1859年6月11日に86歳で死去した。彼の遺した『回想録』(Mémoires)は欧州外交史の一級史料である。30年の平和構築者なのか、自由主義抑圧者なのか、その評価は今も拮抗し続けている。
専門家としての評価
近代外交史において、メッテルニヒはタレーラン・カスルレーと並ぶ古典外交家であり、勢力均衡理論の実践者として国際関係論で頻繁に参照される。30年の平和構築は近代欧州で例外的成功であり、キッシンジャーは博士論文『回復された世界』(1957)で彼を肯定的に再評価した。一方、自由主義・民族主義を体制の敵と見なす彼の世界観は1848年に決定的に挑戦され、彼自身が亡命を強いられた。安定と自由のトレードオフを体現した政治家として、ウィーン体制研究の中心人物であり続けている。