探検家 / navigator

フランシス・ドレーク
イギリス 1540-01-01 ~ 1596-01-28
エリザベス朝イングランドの航海者・私掠船船長・海軍提督(1543年頃 - 1596年)
1577-80年にイングランド人初の世界一周を達成し、ナイトに叙任された
1588年のアルマダの海戦でイギリス艦隊副司令官として火船戦術を用いてスペイン無敵艦隊を撃退した
サー・フランシス・ドレーク(1543年頃 - 1596年1月28日)は、エリザベス朝のイングランドの航海者・私掠船船長・海軍提督。デヴォンのタビストックで1543年に12人兄弟の長男として生まれた。1577-80年にイングランド人として初めて世界一周を達成し、帰国後はナイトに叙任された。1588年のアルマダの海戦では艦隊副司令官として実質的指揮を執り、スペイン無敵艦隊撃退の立役者となった。スペイン人からは悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた。
この人から学べること
ドレークの生涯が現代のビジネスパーソンに示す最大の教訓は、出自や初期リソースの乏しさが最終的な成果を決定しないことである。デヴォンの農民の長男が世界一周を成し遂げイギリス海軍中将になった事実は、スタートアップの創業者や新規事業の責任者にとって強い励ましとなる。さらにアルマダ海戦での火船戦術に見られるように、既存のルールに縛られず状況に応じて非対称な手を打つ発想は、資金力で劣るチームが大企業と競合する際の戦略として今も有効である。不確実性の高い市場で意思決定する際、ドレークのようにリスクを恐れずまず動き、状況から学びながら修正する姿勢は、アジャイル経営の本質と通底する。一方で、長遠征の途上で親交の深かったトーマス・ドウティを軍事裁判で処刑した冷徹さは、組織の規律維持と人的信頼の両立がいかに難しいかも示している。
心に響く言葉
紳士には水夫とともに綱を引いてもらわねばならぬし、水夫には紳士とともに働いてもらわねばならぬ。
I must have the gentleman to haul and draw with the mariner, and the mariner with the gentleman.
小さな始まりから偉大なことが生まれる
Sic Parvis Magna
いかなる大事業にも始まりはあるが、最後まで徹底してやり遂げることこそ真の栄光をもたらす。
There must be a beginning of any great matter, but the continuing unto the end until it be thoroughly finished yields the true glory.
我々の航海は成った。
Our voyage is made.
21日、我々は彼らを追撃し、接近するにつれ双方の艦隊間で砲弾が飛び交った。見る限り、彼らは命を武器で売る覚悟のようだ。
The 21st we had them in chase, and so coming up unto them, there hath passed some cannon shot between some of our fleet and some of them, and as far as we perceive they are determined to sell their lives with blows.
生涯と功績
フランシス・ドレークは、16世紀のイングランドが世界の海へ覇権を伸ばす過程で中心的役割を果たした人物である。農民の長男として生まれながら、海の上で己の運命を切り拓き、一国の歴史を変えるまでに至った彼の人生は、不確実な時代に個人がいかにして大きな事業を成し遂げうるかを示す一つの範例である。
フランシス・ドレークは1543年の2月か3月に南イングランド、デヴォンのタビストックで、プロテスタントの農民で後に牧師となったエドマンド・ドレークとメアリ・ミルウェイの間に、12人兄弟の長男として生まれた。10歳を過ぎた頃には近所に住む老船長のもとで航海に従事し、その働きぶりを認められて船を譲り受けたが、ドレークはその船を売りさらなる旅に出た。いとこジョン・ホーキンスのもとで奴隷貿易に従事していた1568年、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアでスペイン海軍の奇襲を受けて船団が壊滅した経験は、彼に生涯消えないスペインへの復讐心を植え付けた。
1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始し、1573年にはパナマからノンブレ・デ・ディオスへ金銀を運ぶラバ隊を襲撃して、大量の財宝を手に入れた。この成功は彼の名声を確立したが、真に歴史に刻まれるのは1577年に始まる世界周航である。1577年12月13日、排水量約300トンのガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊でプリマス港を出航した彼は、マゼラン海峡を抜けて太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を次々と襲撃した。財宝船カカフエゴ号には銀26トン、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当の積荷が積まれていたとされる。さらにモルッカ諸島を経てインド洋から喜望峰を回り、1580年9月に生き残ったゴールデン・ハインド号のみがプリマス港に帰港し、フェルディナンド・マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成した。
この世界周航は単なる冒険譚ではない。エリザベス女王を含む出資者に4700%とも言われる配当を支払い、王室の取り分は30万ポンドを越えて当時20万ポンド程度であった歳入を上回り、王室は溜まっていた債務を全て清算できたうえに、国策会社のレヴァント会社に増資することができ、これは後の東インド会社設立の基礎となった。ドレークはこの功績によりイギリス海軍の中将に任命されると同時にナイトに叙勲された。途中の1578年にはホーン岬とドレーク海峡を発見している。航海中の1578年6月30日、サン・フリアンで自らを裁判長として開いた軍事裁判では、長遠征出航の功労者であり親交の深かったトーマス・ドウティを反逆罪の容疑で処刑した。
1581年プリマスの市長に選ばれ、その後もスペイン領への攻撃を率いた。1585年から1586年にかけてはスペイン領アメリカへの大規模遠征を指揮し、サンティアゴ島・サントドミンゴ・カルタヘナ・デ・インディアス等の要地を一時掌握した。1587年にはカディスでスペイン船を襲撃し港を3日間占領、1588年のアルマダの海戦ではイギリス艦隊副司令官に任命されたが、実際に艦隊の指揮を執っていたのはドレークだった。火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させた。
晩年の1595年、スペイン領アメリカと開戦して壊滅的な被害を受けた後、プエルトリコのサンフアンの戦いに敗れた。1596年、コロンビアのリオアチャを襲撃して金や真珠を強奪、パナマのポルトベロの海岸から離れて停泊中に赤痢により55歳で亡くなった。鉛の棺に入れられてポルトベロ付近に水葬された。イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは「ドラコ」と呼ばれた二面性そのものが、大航海時代という激動期の本質を映し出している。
専門家としての評価
ドレークは大航海時代の航海者の中でも、探検と軍事・経済活動を最も高度に統合した人物である。マゼランの世界周航が地理的発見と学術的意義に重きを置くのに対し、ドレークの航海は投資と収益のサイクルを内包した商業冒険であった。彼は純粋な探検家というよりも、リスクと報酬を計算しつつ未知の海域に踏み込む戦略的冒険家であり、後のイギリス東インド会社的な企業冒険の先駆者と位置づけられる。