探検家 / mountaineer

エドモンド・ヒラリー
NZ 1919-07-20 ~ 2008-01-11
1919年ニュージーランド生まれの登山家・探検家・慈善家。1953年5月29日、シェルパのテンジン・ノルゲイとともに人類初のエベレスト登頂に成功した。その後1958年に陸路で南極点に到達し、1985年に北極点にも到達。エベレスト・南極点・北極点の「三極」を制覇した最初の人物。晩年はヒマラヤ基金を通じてネパールに学校・病院を建設し続けた。
この人から学べること
ヒラリーの人生が現代人に示す最も重要な教訓は「頂点の後の人生設計」である。エベレスト登頂時34歳だった彼は、その後55年間を「登頂後の人生」として生きた。名声を利用して自己の利益を追求するのではなく、ヒマラヤ基金を通じてネパールのシェルパ族に学校や病院を建設し続けた。これは現代のビジネスリーダーにとって、Exit後やIPO後のキャリアをどう設計するかという問いへの一つの回答である。また、養蜂家という非エリート的背景から世界最高峰に立ったヒラリーの軌跡は、専門的訓練よりも体力・粘り強さ・実地経験の蓄積が卓越を生む場合があることを示す。さらに、400名規模の遠征隊でテンジンとの2人チームとして頂点を目指した構造は、大組織のリソースを最前線の少人数チームに集中させる組織設計の有効性を示している。
心に響く言葉
私は夢を見てきた。何度も実現してきた。最高の冒険とは、冒険が導くところへただ行くことだ。
I have had a dream, and it has come true so many times, that the greatest adventure of them all is just to go where the adventure takes you.
やったぞ、ジョージ。あの野郎を倒した。
Well, George, we knocked the bastard off.
我々が征服するのは山ではない、自分自身である。
It is not the mountain we conquer but ourselves.
生涯と功績
エドモンド・ヒラリーは、人類の到達点を物理的に押し広げた後、その名声を地上で最も必要とする人々のために使い続けた稀有な人物である。エベレスト登頂という一瞬の栄光の後に、半世紀にわたる地道な慈善活動を続けた彼の人生は、「偉業の後に何をするか」という問いへの最も美しい回答の一つである。
オークランド南方のツアカウで養蜂家の息子として生まれたヒラリーは、幼少期は虚弱で内向的だった。16歳の時にルアペフ山への学校旅行で登山に魅了され、養蜂で鍛えた体力と心肺機能が登山に適していることに気づく。20歳でオリヴィア山に登頂し、登山家としてのキャリアを開始した。
第二次世界大戦中はニュージーランド空軍の航空士として従軍。戦後は養蜂業の傍ら登山に没頭し、1948年にニュージーランド最高峰クック山の南稜初登攀に成功。1951年のエベレスト偵察隊、1952年のチョ・オユー遠征を経て、実力を証明した。
1953年の英国エベレスト遠征隊は、英国の威信を賭けた総勢400名以上の大遠征隊であった。隊長ジョン・ハントの下、第1次アタック隊のエヴァンズ・ボーディロンペアが山頂91m手前で酸素装置の故障により撤退。翌日、ヒラリーとテンジン・ノルゲイが最終アタックに出発し、5月29日午前11時30分、人類として初めてエベレストの頂に立った。下山後、最初に出会ったジョージ・ロウに「やったぞ、ジョージ。あの野郎を倒した」と告げた。
エベレスト登頂の知らせはエリザベス2世の戴冠式の日に届き、ヒラリーは大英帝国勲章ナイトを授与された。しかし彼は名声に安住しなかった。1958年には英連邦南極横断遠征隊のニュージーランド支隊を率い、トラクターで南極点に到達。1985年にはニール・アームストロングとともに小型機で北極点に到達し、エベレスト・南極点・北極点の「三極」を制覇した史上初の人物となった。
1960年以降、ヒラリーはヒマラヤ基金を設立し、残りの人生をネパールのシェルパ族の支援に捧げた。彼の尽力でネパールの辺境地域に多数の学校と病院が建設された。1975年にはネパールへ向かう途中の飛行機事故で妻と次女を失うという悲劇に見舞われたが、活動を止めることはなかった。
2008年1月11日、88歳で心臓発作により死去。ニュージーランドで国葬が執り行われた。存命中からニュージーランド5ドル紙幣に肖像が採用された唯一の人物である。
専門家としての評価
ヒラリーは探検家の中で「市民探検家」の原型として位置づけられる。王族でも軍人でも企業家でもなく、養蜂家の息子がエベレストに立ったことは、20世紀の探検が民主化された象徴である。また、テンジン・ノルゲイとの協働は、西洋人指揮官と現地人サポーターという植民地時代の構図を超えた対等なパートナーシップの嚆矢として歴史的意義を持つ。登頂後の慈善活動は、探検が自己実現だけでなく社会貢献に転化しうることを示した最初の重要な事例である。