哲学者 / 近世西洋

ジョージ・バークリー
IE 1685-03-12 ~ 1753-01-14
1685年アイルランド生まれの聖職者にして哲学者。「存在することは知覚されることである (Esse est percipi)」を掲げ、物質の独立存在を否定する主観的観念論を提唱した。ロック・ヒュームと並ぶイギリス経験論3人衆。後にカリフォルニア大学バークレー校の名前の由来となった、独創的かつ宗教的動機の哲学者。
この人から学べること
「存在は知覚されること」というバークリーの命題は、現代のメディア・SNS環境を読み解くレンズとして驚くほど有効だ。バズらない投稿は存在しないも同然、レビューがない商品は売れない、登録されていない会社は社会的に存在しない――現代の私たちは、数百年前の哲学者が形而上学的に主張したことを、ほぼ字義通り経済化している。これは消費者にとっては警告でもあり、起業家にとっては設計指針でもある。「誰の知覚に存在するか」を意識せずプロダクトを作っても、市場という観念の海では存在しないも同然になる。一方で彼の思想は注意経済の不健全さを暴く批判ツールにもなる。私たちが他者の知覚を求めて消耗するとき、自己の存在条件を市場の視線に外注しているのだ。メンタルヘルスの観点では、バークリー的な「観念は実在する」という構図は、CBT(認知行動療法)と相性が良い。心の中の観念は物理的でなくとも、人生の質を決定する程度には「実在」する。「気のせいだから」と切り捨てない感覚への解放感を提供する。
心に響く言葉
存在することは知覚されることである。
Esse est percipi.
この壮大な世界を構成するあらゆる物体は、心なしには何の存在をも持たない。
All those bodies which compose the mighty frame of the world have not any subsistence without a mind.
では流率とは何か。消えゆく増分の速度か。それは有限量でも無限小量でもなく、無でもない。これらは「すでに消えた量の亡霊」と呼ぶべきではないのか。
And what are these fluxions? The velocities of evanescent increments? They are neither finite quantities, nor quantities infinitely small, nor yet nothing. May we not call them the ghosts of departed quantities?
西へ、帝国の歩みは進んでゆく。
Westward the course of empire takes its way.
生涯と功績
ジョージ・バークリー(1685-1753)は、アイルランド出身の聖職者にして哲学者であり、「物質は存在しない」という驚くべき主張で哲学史に名を残した。父は軍人、家族はイングランド系の名家で、キルケニー大学を経て1707年、ダブリンのトリニティ・カレッジで修士号を取得した。彼の代表作は3冊しかない――『視覚新論』(1709)、『人知原理論』(1710)、『ハイラスとフィロナスの三つの対話』(1713)――が、すべて20代後半までに書かれている。
彼の哲学の中核命題は「存在することは知覚されることである (Esse est percipi)」だ。机を叩いてその硬さを感じても、認識しているのは「硬さの感覚」であって「机そのもの」ではない、と彼は論じる。素朴実在論者ハイラスとバークリーの代弁者フィロナスの対話篇は、当時の読者にも現代の読者にも知的スリルを提供する。物質という概念は冗長で、観念の束だけで世界は記述できる――この主張で彼は唯物論的無神論の流行に抵抗しようとした。聖職者としての動機が強く、神こそが私たちに連続的な感覚を与える主体であり、誰も見ていない時の机の存在も神の知覚によって保証される、と彼は主張した。
初期の主張は嘲笑された。ジョンソン博士が石を蹴って「これでバークリーを反駁した」と叫んだ逸話は有名である。しかしそれは誤読だった。バークリーは石が痛みを与えないとは言っていない。石もその痛みも観念だが、観念は確かにあるのだ、というのが彼の論点である。サミュエル・クラークやウィリアム・ホイストンら同時代の知識人は「並外れた天才」と認めながら、第一原理は誤っていると考えた。
1721年に『運動論』(De Motu) でニュートンの絶対空間・絶対時間を批判し、後のマッハやアインシュタインの相対性原理の先駆けとなった。1734年、ニュートンの流率法(微積分)の論理的不整合を『アナリスト』で痛烈に批判し、無限小をめぐる数学基礎論の議論に火をつけた。「無限小は既に消えた量の亡霊だ」という名フレーズは、19世紀のε-δ論法による厳密化への遠い起点となる。
1728年から32年にかけて、彼は新世界に大学を作るためロードアイランドのミドルタウンに移住したが、英国議会の約束した資金が届かず帰国を余儀なくされた。1734年にアイルランド国教会クロイン主教に任命され、晩年は司牧と松脂水(タール水)の医学的効用を説く著作に没頭した。1753年オックスフォードで没。彼の主観的観念論は、カントが超越論的観念論への触媒として真剣に応答し、ヒュームが懐疑論の出発点として吸収し、20世紀には現象学・分析哲学双方が再発見した。カリフォルニア州バークレー市と同名の大学は、彼の名声がアメリカ建国期の知識人たちに浸透していた証である。
哲学史におけるバークリーの位置は奇妙に二重である。「物質否定」という極端な主張のために素人読者には嘲笑され続ける一方、専門家は彼の議論の鋭さに頭を抱える。物質が独立に存在するという素朴な確信が、本当に正当化できるのかという問いは、量子力学の観測問題や認知科学の意識ハードプロブレムにまで延びている。経験論者でありながら結論は反唯物論――この捻れこそが、彼を時代を超えて再読され続ける思想家にしている。アイルランド出身であることも見逃せない要素だ。当時のアイルランドはイギリス植民地的状況にあり、辺境からヨーロッパ中央の知的議論に切り込んだ点で、彼の独自性は地理的にも刻印されている。
専門家としての評価
イギリス経験論3人衆(ロック・バークリー・ヒューム)の中で、バークリーは最も急進的な結論に到達した。ロックの一次性質・二次性質の区別を徹底化し、両方とも観念に過ぎないと主張することで、観念論の極へと進んだ。ショーペンハウアーが彼を「観念論の父」と呼んだ所以である。一方で彼の動機は宗教的であり、無神論への対抗策として観念論を構築した点で、純粋哲学者ヒュームとは質を異にする。アイルランド辺境からヨーロッパ哲学中枢に挑んだ独自性も見逃せない。