起業家 / 産業開拓者

リライアンス財閥
インド 1932-12-28 ~ 2002-07-06
20世紀インドの起業家・リライアンス創業者
ポリエステル商から石油精製まで垂直統合しインド三大財閥を築いた
川下から川上へ順次遡る段階的統合はスタートアップにも応用できる
1932年インド・グジャラート州の村で教師の息子に生まれ、アデンでの出稼ぎを経て帰国後にリライアンス・インダストリーズを創業。ポリエステル繊維の輸入から石油化学・精製へ垂直統合を進め、タタ、ビルラに並ぶ三大財閥のひとつを一代で築いた。株主総会にスタジアムを借り切り数万人の個人株主を集めた「エクイティ・カルト」の仕掛人。
名言
大きく考えよ、素早く考えよ、先を読め。アイデアは誰の独占物でもない。
Think big, think fast, think ahead. Ideas are no one's monopoly.
自分の夢を築かなければ、誰かに雇われてその人の夢を築く手伝いをするだけだ。
If you don't build your dream, someone else will hire you to help them build theirs.
我々は人に賭ける。
We bet on people.
準備と目標の間には、規律という名の重要な橋がある。
Between your preparation and your goals, there is one important bridge called discipline.
若者に適切な環境を与えよ。動機づけよ。必要な支援を差し伸べよ。彼ら一人ひとりが無限のエネルギー源を持っている。必ず結果を出す。
Give the youth a proper environment. Motivate them. Extend them the support they need. Each one of them has infinite source of energy. They will deliver.
関連書籍
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ディルバイ・アンバニの事業軌跡は、新興国市場で事業を構築しようとする現代の起業家に複数の実践的な教訓を示している。第一に、段階的な垂直統合の戦略がある。彼はポリエステル糸の輸入商から始めて、製造、原料の石油化学、最終的に原油精製にまで遡った。いきなり川上を押さえるのではなく、川下で需要を掴んでから順次上流に遡るこのアプローチは、資金力が限られるスタートアップにも応用できる考え方である。第二に、規制環境との共存の知恵がある。インドのライセンス制度を敵視するのではなく、その枠内で最大の許認可を取得し、規模の経済を武器にした手法は、法規制が複雑な業界で事業を展開する際の参考になる。第三に、個人投資家を味方につける資本戦略は注目に値する。機関投資家偏重でなく、数万人の小口株主との直接的な関係構築は、現代のクラウドファンディングやコミュニティ経営の先駆ともいえる。一方で市場操作疑惑や政治との近さという論争は、急成長企業がガバナンスとコンプライアンスを両立させる今日的課題を先取りしている。
ジャンルの視点
起業家の類型としてディルバイ・アンバニは、技術革新者ではなく「市場創造型の産業組織者」に位置づけられる。彼自身が新たな技術を発明したわけではないが、ポリエステルという素材のインド国内市場を事実上つくり出し、さらに資本市場における個人投資家文化そのものを創造した。同時代のインド財閥が伝統的な家業の延長で成長したのに対し、一代でコングロマリットを建設した点で異質であり、新興国における非連続的な企業成長の原型を示した存在である。
プロフィール
ディルバイ・アンバニは、独立後のインドにおける民間企業勃興の象徴であり、規制と官僚主義が経済を縛っていた時代に、規模の力で市場そのものを創り出した人物である。インド三大財閥のうちタタとビルラが数世代にわたる蓄積で形成されたのに対し、リライアンスは彼一代の事業で同列に並んだ点に、その異質さと破壊力がある。
1932年12月28日、グジャラート州ジュナーガド県チョルワード村に生まれた。父ヒラチャンドは村の学校教師で、裕福とは言いがたい家庭環境であった。正規の高等教育を受ける機会に恵まれなかったディルバイは、10代でイエメンのアデンに渡り、貿易商の下で働きながら商取引の実務を独学で身につけた。アデン時代にガソリンスタンドで働いていたというエピソードも伝えられており、後年の立志伝説を彩る原点となっている。
1958年、帰国したディルバイは従兄弟のチャンパクラル・ダマニと共同でムンバイに事務所を構えた。マスジッドバンダーのナルシナータ通りに借りた約33平方メートルの部屋に電話1台、机1つ、椅子3脚という出発点であった。事業はイエメン向けの香辛料輸出とポリエステル糸の輸入から始まった。1965年にダマニとの共同経営を解消し、独立してリライアンスを本格的に展開する。経営スタイルの違いが決別の原因とされるが、この独立がなければ後の急拡大はなかったと考えられている。
ディルバイの事業戦略の核心は、輸入代替から国産化、そして垂直統合へと進む段階的な拡張にあった。当初は海外からポリエステル糸を仕入れて国内で販売していたが、やがて自社での繊維製造に乗り出し、さらに原料となる石油化学製品、最終的には原油精製にまで遡る一貫生産体制を構築した。この川上への統合は、インド政府のライセンス制度と巧みに折り合いをつけながら進められた。規制を敵視するのではなく、規制の枠組みの中で最大の規模を確保するという手法は、当時のインドで事業を拡大する上での現実的な知恵であった。
1977年、リライアンスは株式を公開する。ここでディルバイは画期的な手法を採った。大口の機関投資家に頼るのではなく、インド各地の中産階級や小口の個人投資家に直接株式を販売する戦略を展開したのである。株主総会はムンバイのクリケット競技場を借り切って開催され、数万人規模の個人株主が集まる様子は一種の祭典と化した。この手法はインドに「エクイティ・カルト」と呼ばれる株式投資文化を根付かせる契機となり、インド資本市場の発展に大きく貢献したと評価されている。
一方で、アンバニの事業手法には常に論争がつきまとった。1982年から1983年にかけて、マン島に登記された複数の投資会社を通じて2億2千万ルピーの資金がリライアンスに流入した件では、国会で追及が行われた。1988年のボンベイ証券取引所における空売り騒動では、カルカッタの売り方グループとの攻防が取引所の3日間閉鎖を招き、市場操作の疑惑が取り沙汰された。インド準備銀行の調査は違法行為を認定しなかったものの、こうした論争はディルバイの経営に影がつきまとう側面として記録に残っている。
1986年2月に最初の脳卒中で右手に麻痺が残り、以後は息子のムケシュとアニルに経営を段階的に委譲していった。2002年6月24日に再び脳卒中で倒れ、7月6日にムンバイのブリーチ・キャンディ病院で69歳の生涯を閉じた。死後、リライアンスはムケシュ率いる本体とアニル率いるグループに分割されたが、本体は通信事業Jioなどで成長を続けフォーチュン500にも名を連ねる。2016年には貿易と産業への貢献でパドマ・ヴィブーシャン勲章が没後追贈された。
村の教師の息子が一代でインド経済の地図を塗り替えた軌跡は、独立後インドの産業史を語る上で欠かせない。