哲学者 / 東洋哲学

墨子
中国 -0469-01-0 ~ -0390-01-0
中国戦国時代の思想家(紀元前470年頃-紀元前390年頃)。諸子百家の一派、墨家の開祖である。「兼愛」(差別なき愛)と「非攻」(侵略戦争の否定)を中心に独自の倫理体系を構築し、儒家と並ぶ戦国時代二大学派の一翼を担った。守城技術にも長け、平和主義と論理学・幾何学・光学を結びつけた異色の知的伝統を残している。
この人から学べること
墨子から現代人が学ぶ第一は「兼愛交利」の発想である。家族・組織・国家といった内集団優先の論理で社会を動かそうとすれば、外との敵対と内の不公平を不可避に生む。逆に「無差別の愛は無差別の利益を生み、差別は不利益を生む」という墨子の発想は、グローバルなサプライチェーン、移民受け入れ、地球環境問題といった、内集団論理では解けない現代的課題への思想的補助線となる。第二に、非攻篇の「殺人の数で犯罪は累積する」という論理は、戦争・経済制裁・市場操作などスケールが大きいと不可視化される暴力に対する倫理的レンズを提供する。「一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」――この問いはAI開発倫理や情報セキュリティの議論にも応用できる。第三に、墨家の実務集団としての側面、すなわち倫理思想と工学技術を一体的に発展させた点は、現代のソーシャル・テック・スタートアップに歴史的先例を提供する。
心に響く言葉
兼ねて相愛し、交わりて相利する。
兼相愛、交相利。
官に常貴無く、民に終賤無し。
官無常貴、而民無終賤。
義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非ず。
為義非避毀就誉也。
一人を殺せばこれを不義と言い、必ず一つの死罪がある。この説を推し進めれば、十人を殺せば十重に不義であり、必ず十の死罪がある。百人を殺せば百重に不義であり、必ず百の死罪がある。
殺一人謂之不義、必有一死罪矣。若以此説往、殺十人十重不義、必有十死罪矣。殺百人百重不義、必有百死罪矣。
生涯と功績
墨子(墨翟、ぼくてき)は、中国戦国時代に活動した諸子百家の一派、墨家の開祖である。生没年は紀元前470年頃から紀元前390年頃と推定される。出身地は魯・宋・楚など諸説あり、姓については「墨」が姓なのか綽名なのかすら定かでない。当初は儒学を学んだが、儒家の仁の思想を「家族や長たる者に対する偏愛」だと批判し、独自の思想を切り拓いた。司馬遷『史記』では「蓋し墨子は宋の大夫なり」とされるなど、前漢の段階で既に伝記的事実は曖昧だったことが分かる。
墨家の思想体系は『墨子』に伝えられる十大主張、いわゆる「十論」を中心に構成される。論の展開方法としては比喩や反復を多用し、一般民衆に理解されやすい語り口を取る点で他の諸学派と異なる特色を有する。最も特徴的なのは「兼愛」(けんあい、無差別の愛)と「非攻」(侵略戦争の否定)である。兼愛とは万人を公平に差別なく愛せよという教えで、現代でいう博愛主義に近い。利益は無差別から生まれ、不利益は差別から起こるという認識に立つ。非攻は他国への侵略を否定する一方、防衛戦争は否定しない。「一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」という墨子の問いは、現代の戦争倫理学の議論にも通じる根本性を持つ。
他の主要な主張としては、貴賎を問わず賢者を登用すべきだとする「尚賢」、賢者の判断に従い社会の価値基準を統一する「尚同」、無駄を排する「節用」、葬礼の簡素化を説く「節葬」、宿命論を否定する「非命」、愉楽を排す「非楽」、上帝の意思を強調する「天志」、賞罰を与える鬼神を肯定する「明鬼」がある。儒家の祭礼重視・楽の重視への明確な対抗が見える。
注目すべきは、墨家が単なる倫理思想集団ではなく、土木・冶金・守城技術に長じた実務集団でもあったことだ。『墨子』の第三部「墨弁」(墨経)には論理学・幾何学・光学・力学に関する専門用語と学説が体系的に記されており、特に光学では世界最古のピンホールカメラ(暗箱)現象の記述を含む。中国科学技術史の先駆者として、墨子は近年「科聖」と称えられ、2016年に中国が打ち上げた世界初の量子科学実験衛星は彼にあやかって「墨子号」と命名された。
墨家の思想は秦漢以後、儒家が国教化される過程で衰退し、漢代以降ほとんど受容されなかった。清代考証学で『墨子』の校訂が進み、清末民初には梁啓超や譚嗣同ら変法派の革命思想家に再評価された。日本では江戸時代の漢学者によって紹介され、戦後は全釈漢文大系『墨子』の訳者でもある渡辺卓らの研究が基礎となった。1934年には魯迅が『非攻』を短編小説化し、1991年の歴史小説『墨攻』(酒見賢一)とその2006年の日中韓合作映画は、現代の若い世代に墨家の存在を知らしめた。2004年には日本国会で小泉首相が『墨子』耕柱篇の「義を為すは毀を避け誉に就くに非ず」を引用してイラク派遣を正当化した珍しい一例も残されている。墨家の思想は、儒家とは異なる「もう一つの中国哲学」として近年再発見が進む隠れた古典であり、近代の人権思想・平等主義・反戦平和論との比較研究の蓄積も増えてきている。墨翟の死後、墨家は禽滑釐・孟勝・田譲に導かれて一大勢力となるが、最終的に秦による統一までには消滅した。明末の出版文化の発達で複数の刊本が出た後、清朝考証学者の王念孫・孫星衍・畢沅・孫詒譲らによって『墨子』の校訂整理と再評価が行われた。
専門家としての評価
中国哲学史における墨子の位置は、儒家と並ぶ戦国時代二大学派の創始者として、平等主義・反戦主義・実用主義・科学的探究を独自に結合した点で唯一無二である。秦漢以後は受容が断絶したが、清末民初の革新思想家による再評価、欧米キリスト教比較研究との接続、現代中国の科学技術史としての再評価を通じて再発見が続いており、東アジア思想の隠れた水脈として読み返されている、儒道仏の三大潮流とは異なる異色の古典思想家である。