作家・文学者 / バロック

ニコライ・ゴーゴリ
ウクライナ 1809-04-01 ~ 1852-03-04
1809年、ロシア帝国ポルタヴァ県ソロチンツィ(現ウクライナ)に生まれた小説家・劇作家
戯曲『検察官』(1836)と長編『死せる魂』第1部(1842)でロシア帝政下の官僚腐敗を風刺
1848年のエルサレム巡礼後に文学を放棄し、1852年3月4日に断食衰弱で死去した
ミコラ・ヴァシリオヴィチ・ゴーゴリ(1809年4月1日〈ユリウス暦3月20日〉 - 1852年3月4日〈ユリウス暦2月21日〉)は、ロシア帝国ポルタヴァ県ソロチンツィ(現ウクライナ)出身の小説家・劇作家。ウクライナの民俗を題材にした『ディカーニカ近郷夜話』(1830年・1832年)でデビューし、戯曲『検察官』(1836年)と長編『死せる魂』第1部(1842年)でロシア帝政下の官僚腐敗と社会の卑俗さを風刺した。ロシアとウクライナのリアリズム文学を創始した一人である。1848年のエルサレム巡礼後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響で文学を棄てる決心をし、1852年3月4日に断食衰弱により死去した。
この人から学べること
ゴーゴリの軌跡は、現代の表現者や組織人にいくつかの示唆を残す。第一に、風刺を破壊ではなく改善の手段として用いる姿勢である。『検察官』も『死せる魂』もロシア社会を「より良くする」ために書かれており、批評や改善提案を担う者にとっての参照点となる。第二に、最初の失敗作を完全に手放す勇気である。自費出版した『ガンツ・キュヘリガルテン』が酷評されると彼は売れ残りをすべて買い戻して焼却し、別の出発点から再起した。第三に、単一の精神的指導者に判断を全面的に委ねることの危うさである。コンスタンティノフスキーの「想像的著作はすべて罪である」という主張を受け入れた結果、ゴーゴリは『死せる魂』第2部の大半を焼却し、自らの命までも失った。強い影響力を持つ助言者ほど、自分の判断を残す余地を確保する必要がある。
心に響く言葉
私は全世界を自分の国とみなしている。
I regard all the world as my country.
私の意見では、改善できないものは何もない。
In my opinion, there is nothing which cannot be improved.
私の情熱は地上の思索からではなく、天から来る。
My passion comes from the heavens, not from earthly musings.
生涯と功績
ミコラ・ヴァシリオヴィチ・ゴーゴリ(ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ、戸籍上の姓はホーホリ=ヤノーウシクィイ)が文学史において特別な位置を占めるのは、地方役人や下層民の卑俗を「涙を通しての笑い」で描き、ロシアとウクライナのリアリズム文学の出発点を作った点にある。社会の腐敗や人間の卑俗さを徹底して可視化したその皮肉は、ドストエフスキーをはじめ後続作家に深い影響を残した。
1809年、ロシア帝国ポルタヴァ県ソロチンツィ(現在のウクライナのポルタヴァ州ムィールホロド地区ソロチンツィ)の小地主の家に、父ワシーリと母マリヤの間に生まれた。父ヴァスィーリ・ホーホリ=ヤノーウシクィイはウクライナ語による戯曲を2篇のこしたアマチュア劇作家であった。1818年に9歳で弟イワンとともにポルタヴァの小学校に入学したが、翌年弟が死去し、ゴーゴリは深い衝撃を受ける。
1821年にネージンの高等中学校に寄宿生として入学し、学業よりも絵画と文学に熱中し、学校演劇では老け役や吝嗇漢の役者として才を発揮した。1828年夏に卒業して首都ペテルブルクに出ると、V.アロフという筆名で叙事詩『ガンツ・キュヘリガルテン』を自費出版したが酷評され、失意のあまり一時国外に逃亡した。1830年に最初の散文作品『ディカーニカ近郷夜話』第1部を匿名で『祖国雑誌』2月号・3月号に発表すると一躍人気作家となり、1831年には歴史小説『ゲチマン』第1部を発表、ジュコーフスキーの紹介でプーシキンと出会った。
1832年に故郷に帰って口碑と歌謡を収集し、『ディカーニカ近郷夜話』第2部を出版した。1833年から1834年にかけて『昔気質の地主たち』『ネフスキー大通り』『タラス・ブーリバ』『肖像画』『ヴィー』『イワン・イワーノヴィチとイワン・ニキーフォロヴィチが喧嘩をした話』『狂人日記』などを書き、1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教えた。1836年、戯曲『検察官』で名声を広げたが、彼の得意とする皮肉とユーモアは非難の対象にもなり、ゴーゴリはその非難を避けてヨーロッパへ旅立った。
1837年、滞在先のパリでプーシキンの訃報を知り、傷心のままローマへ向かった。以降の人生の大部分をドイツとイタリア、とくにローマで過ごした。1840年8月にイタリアへ戻った頃に『外套』を書き、1842年に『死せる魂』第1部を刊行した。1847年の『友人との往復書簡選』が頑迷で教条的な説教と帝政・農奴制を賛美する反動思想を含んでいたため、ベリンスキーをはじめ多くの支持者を失った。
1848年、信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレム巡礼に旅立ち、帰還後は聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』第2部を再び焼いた。1852年3月4日、断食により惨たる形骸を残して死去し、12日に盛大な葬儀が行われた。
専門家としての評価
ルーベンスはバロック絵画の最も壮大な達成を代表する画家として、ティツィアーノの色彩主義とカラヴァッジオの明暗法を統合し、豊麗な色彩と劇的な構図による壮大な叙事的表現を確立した。約三千点の作品を可能にした大規模工房の組織運営は近代的クリエイティブスタジオの原型であり、外交官としての国際的活動も含めたバロック的万能人としてのスケールは美術史上に稀有な存在である。ドラクロワからルノワールに至る色彩主義の系譜への影響は大きい。